降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

コンセプトの無い場は「自由な場」か 意識化を怠ることとその反映 

開かれゆく対話の文化祭の振り返りがあった。フィードバックする。どこまで決めてどこまでその場に任せるかという話しも出たのでまずそこに。

 

場をもつ時のあり方について。
場をもつ時は、コンセプト、ここで何をやりたいのかをそこに関わる人がきちんと意識化することがとても重要だと思っている。そこを明確に意識化しないで成功したり、失敗しても学ばないからだ。そしてやがてそのことは手応えに反映してきて、疲れる。

 

自分で場を持つということに、そんなに経験をもっていないかもしれない。場を自由にしたいからあらかじめそんなに考えないのがいいと思うかもしれない。だが、自由を大事にするならば、自由になるにはどういうことが必要かと考えることが必要だ。場当たりでやることは必ずしも自由に繋がらない。

 

たとえば自己紹介して誰かがしたやり方をみんなが踏襲するような場合がある。来た人は様子見しているし、安全で無難なほうにいく動機をもっている。日常と違う不安定な場では、そうすることが面白いと思っていなくても無難な選択をする。

 

参加者は、企画者の期待通りに最初から冒険心に溢れているわけではない。もし企画者が参加者に思い切ったことをしてもらいたいなら、それなりの補助をいれる必要がある。飛び込み台へのルート提示と飛び込み台の用意をする。余計な迷いを断てるよう環境をあらかじめ整えておく。

 

みんなが話しをする場をつくろうと思ってやってみたら、いつも喋っている人がたくさん喋って他の人の声が極端に少なくなる場合。このパターンがどれだけ多いか。大事にすることを先に意識化せずに場当たりでやるのは、自由でもプロセス重視でもないと思う。

 

放っておいたら往往にしてどうなるか。この設定をしたら人はどう動き、どう反応するパターンになるか。ありがちな惨状をあらかじめ防ぐ仕組みを盛り込むのは、ありがちな惨状を再体験したいというコンセプトでないならば、必要なことだろう。

 

長い目で見れば、とりあえず企画をやってみるよりもなぜそれをやろうとしたのか、何が自分の根源的な動機なのかを吟味するほうが重要だと思う。できるところまで先に意識化してこそ、やってみてどうだったかが学べる。

 

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みんな話すかな? 場をもってみよう。いい場になればいいな。とりあえずみんなを一箇所によぼう。やってみたら何かなるだろう。あとは自主性にまかせよう。あれ、今どんな感じかな? まあこれはこれで面白いし、いいのかな? 最初考えてたのとは違うけれど。喜んでいた人もいたし。
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誰かが喜ぶ、というコンセプトだったらいいだろう。でもそれが自分にとっての手応えだろうか。求めだったろうか。多分上のような思考がおこるとき、意識では肯定していても、体験としては疲弊をおこしていると思う。

 

場は自分のコントロールを離れている。どうなるかわからない。意図と逆になるかもしれない。しかし、だからといって自分がどういう方針でのぞみ、そのためにどういう整えをし、その結果としてどうだったのかを確かめることを抑圧してしまうと次にやる場は1回目以上に場全体のテンションが下がったものになる。

 

コンセプト、自分が何をやろうとしているのか、どう臨もうとしているのかを煮詰めることが、次にやってくる体験の質を決めると思う。やりたいこと、方針をはっきりさせたからこそ、場の様々な要素を繊細に受け取ることができる。