降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

南区DIY研究室読書会 『「被抑圧者の教育学」を読む』第2章

南区DIY研究室読書会。

 

今回は、里見実『「被抑圧者の教育学」を読む』の第二章と山口純さんによる身体教育研究所の『白誌』の発表。

 

『「被抑圧者の人類学」を読む』も一章ずつ読むのだったら毎回発表できるし、読むのと考えるのがちょうどいい。自分たちでやる読書会なのだから一回に一冊まるごとが読んでまとめなければということもなかったのに今まで思い至ってなかった。

 

第二章は、預金型教育について。知っている人が知らない人に一方的に教える、いわゆる普通の教育がフレイレのいう預金型教育だ。銀行型とも呼ばれるが銀行も多機能化しているし、より単純な預金行為のほうが本来の意図にあうだろうとのことでこの訳になったとのこと。

 

ーー
ただのレコーダーにすぎない生徒たちは、その伝達された内容を、辛抱づよく受け入れ、記憶し反芻する。預金型教育においては、生徒の行動にふり当てられるただひとつの余白は、預託されたものを受け取り、それを記録して保管することだ。
ーー
この過てる教育において、とどのつまり、保管されて死物となるのは人間なのである。保管物になるということ、それは探究と実践のプロセスから除外されるということであって、人間は、もう人間ではありえない。
ーー
教師と生徒は、自らを記録保存庫に閉じ込めるのだ。ゆがんだ教育によって創造性、変革する力、知るという行為が消えていけば、それに比例して教師と生徒の閉塞はすすんでいく。
ーー
知るという行為の本質は、人間が世界のなかで、そして世界と他者とともにおこなう、安んずるところのない、内心に突き動かされた絶えざる探究、不断の発見と再発見のなかにこそあるのだから。それはまた、絶えざる希望の探究でもある。
ーー
(里見)多くの教室では、先生の話すことを大人しく聞き、黒板の文字をノートに写し、それを暗記するのが、すなわち学習、ということになっています。そのようにして学んだ知識がどこで活かされるかというと、その活動の場はただひとつ、試験であって、全ての学習はテストで測定される「学習成果」の数値工場をめざしておこなわれています。めでたく試験に合格したら、学んだ知識はその瞬間に無用のものとなります。学ぶということは所詮そういうことなのだと教え込むこと、それが学校教育の「隠されたカリキュラム」なのです。
ーー

 

預金型教育が教えこむのは、その内容以上に、権力に従い、自分からの探究をやめ、認められることを動機の基準とする態度なのだろう。ドラマという教育手法は、産業革命時の一斉一律教育体制の導入の際、アーティストたちが子どもたちがロボット化されてしまうことを懸念して作り出されたときく。

 

里見は、教育の本質は抑圧であるが、その抑圧をずらし、反転させ自由と解放の行為に転換していく可能性をフレイレは信じていたと述べる。里見は『学校を非学校化する』という著書なども出しているが、僕には里見はそれでも制度化された学校教育の外に出ることはあまり考えてないように思える。

 

もちろん学校教育を変えることによって状況の改善をしようとする流れはあっただろう。しかし、それがどれだけ功を奏したのだろうか。学校の管理統制、従う人間づくりへ向かう規律訓練はむしろ強化されているぐらいなのではないのかと感じられるのだけれど。

 

僕は外の可能性を追究するほうが現実的だろうと考える。そこでみんなが一斉に変わるとかいうことはない。一斉にみんなを変えようとか、多くの人が変わらないと意味がないとか、いまだにそういう一律とか全体を基準に考えるマス思考から脱して、その場その場で、小規模で自律的な生態系があちこちで生まれるということで十分であると思うし、逆に現実的に考えるならそういう方向性のほうが展開可能性があるだろうと思う。

 

今回の発表で、いのちの時間というふうにいのちという言葉を使った。イリイチのいう資源としての個々に所有された生命ではなく、その人におこる変容更新の自律的プロセスとしてのいのち、と設定した。今までいのちという言葉はあまりにも欺瞞的に利用され過ぎていると感じていたので抵抗があったが、息づいているものを表現するのに、今のところそう表現するのが近い気がした。

 

フレイレは人は効率や概念に圧倒され、モノとしての時間を過ごす時間のほうが、むしろ失われた時間なのであると指摘している。その時、人はたとえ刺激に覆われていても、いのち、すなわち息づき、変容していくプロセスとしての時間を失っている。いのちの時間は止まっている。

 

大見村でおこなわれた漆喰塗りの話しがでた。ただひとつの効率や合理性を優先して、最小の努力で最大の「成果」をあげるなどと考え、一人一人に同じやり方を要求するなら、それは苦痛でしかない時間になるだろう。だが効率にも強制されず、所有にも関係なく、それぞれが自由に自分のあり方でモノとの関わりを探究していくなら、それはその時間自体がいのちの時間として流れ、息づいているのだ。それは自然と次への動機や展開を派生させる。

 

いのちの時間は、それが流れていくこと自体が充実であり、自意識に変容をもたらせていく。だが疎外を内在化させる社会において、いのちの時間を流していくことは、工夫なしには不可能だ。なにが自分のその時間を止めているのか。それを知ることなく向き合うこともできない。受動的存在になった人は、環境に埋没し、いのちの時間を流す存在としての自分を失っている。

 

埋没した状況から頭一つ抜け出し、いのちの時間を取り戻していくためのリハビリが必要だ。そのプロセスが感じられるのは、普段支配されている効率や強制が打ち消された空間においてであると思う。そのような空間をあつらえ、そして動き出したプロセスをすすめていく。それがプロセスとの対話、いのちとの対話であるだろう。そのやりとりがされているとき、自分がある。

 

素晴らしい達成や、リカバリーの後の生が本当の生なのではない。いのちの時間が流れだすように、必要なことを知り、整え、踏み出していくという過程そのものが生なのだ。達成とは過程の死であり、別の過程を必要とする。めぐることで腐敗しない水のように、生は流れめぐるプロセスとしてある。