降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

精神の呼吸 マッチポンプの世界に呑まれないために

認識は、言語という分節化されたフィルターによって構成されている。物心とはそのフィルターが継ぎ接ぎされていって、世界が覆われた状態なのかと思う。世界の広さや奥行きを知らないのに、自分のなかに、閉じて時間の止まった矮小な世界が一旦作り出される。その矮小な世界ができることは、この社会でそれぞれのものがどういう関係性を持っているのかを便宜的に秩序立て、把握し、盲目的にであってもそこに同一化していくことには適している。

 

一旦そのような世界認識ができると、その世界認識が事実上の現実となってしまう。自分というものの意味は、その世界認識から自動的に決定される。分節化される言葉の世界の前の、世界と一体化したものであった時に比べると、自分が何かの意味に同定され矮小化されることは、屈辱的なことであり、傷となる。

 

 

 

 

 

自意識とは問題そのものであり、傷そのものであるだろう。自意識とは意味を求め、意味にすがりつく傷だ。自意識は、自らの屈辱と矮小さから逃れようとし、より高次の意味を求める存在になる。だが意味とは言語によって作られた相対的なものだ。高いものになるためには低いものの存在が必要になる。

 

だが高低の順位決定は常に不安定だ。自分の力をこえたものに依存している。白雪姫の継母が美しさにおいて白雪姫に抜かれてしまうように。

 

またそれだけでなく継母は、白雪姫に抜かれなくても毎回毎回鏡に訊ねて確認しなければならない不安を常に抱えている。言葉の世界の見えが立ち上がっているところには、根本的な解決はない。

 

人間が自ら取り入れた言葉。そして言葉によって、意味を求める亡者になる疎外から逃れられない。自意識としては、マッチで火をつけ、ポンプで火を消す作業が生きている間にやる作業だ。「自己実現」などというものは、そういうマッチポンプにおける火消しの遂行のことなのだ。

 

だが一瞬であれ、言葉の世界が立ち上がる前は、自分は本来のものとしてすでに取り戻されている。そのことは意識の上で対象化して認識できないけれど。意味のない自分が本来いた(いる)世界、それは認識できない。意味のある仮想現実の世界は認識も対象化もできるが終わりない意味の競争の世界だ。

 

意味を求める人は意味がないことを知った時、虚脱に見舞われるだろう。だがその虚脱という死を経過すれば、白雪姫の継母のように灼熱の靴をはかされ、熱さのあまり踊り続けなければならない強迫的な世界から降りることができるだろう。

 

豊かに生きることとは、意味のある世界と意味のない世界の二重性を知り、意味の世界に支配されきってしまわないことであるだろう。

 

人間、人権、尊厳などという言葉は、その場における意味や有用性の打ち消しを意図したものだろうと思う。意味のある世界において、意味による序列化と屈辱を打ち消すもの。そのような空間が与えられる時、人は意味によって緊張させられ、凍っていた自身の更新作用のプロセスが動きはじめる。

 

自己実現」しようとするのも、劣位の意味によって凍って止まっている更新のプロセスから自分を解放しようとするためだろう。だが社会で高いステータスにたどり着かなくても、意味を打ち消す空間を用意すれば、ことは進められるのだ。

 

意味が打ち消された場では、精神の呼吸が取り戻され、そこに自然な新陳代謝がおこっていく。古いものが棄却され、新しいものにとりかえられていく。