降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

赦し 否定の否定としてあらわれる信頼

1年が経つ星の王子様読書会。次回は9月12日(水)18:30@茶山

 

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今回は、うぬぼれやの場面。王子を遠くから発見したうぬぼれやは、自分を称賛しにきたぞと思い、王子に手を叩かせて丁寧にお辞儀をして見せたりするが、王子が心から称賛していないのに気づき、お願いだから称賛してくれよ、と懇願する。王子は仕方なく、「称賛するよ」と言ってあげて、やっぱり大人というのは相当変だなあと思いつつ、星を後にする。

 

ページにして4ページ弱。講師の西川さんが読んで場の参加者に話しをふる。それぞれが話してそれで一回が終わるという超スローペースで一回一回がすすんでいく。

 

西川さんは星をめぐる際の王子は地球にきてパイロットにあった王子とは違い、まだ未成熟で何もわかっていない状態だという。星々にいる大人たちとのやりとりは単に大人たちの愚かさのエピソードとして解釈されがちだが、むしろ彼らを表層的にしか受け取れない王子の姿を描いていると指摘する。

 

うぬぼれやのページは特に何かを見つけることもなく、さらっと流してしまっていた。王子はうぬぼれやのお辞儀を面白がって何度もさせ、飽きたら帽子を落としてみろと提案する。王子にとって相手は全く消費の対象でしかない。一方で、うぬぼれやは称賛を要求してはいるものの、相手に対して自分ができる最大限の誠実な贈り返しをしている。王子の適当な拍手とは大違いだ。

 

「お願いだからさ。なんでもいいから、わたしを称賛しておくれよ!」といううぬぼれやの言葉は切実だ。なぜうぬぼれやはここまで称賛を求めなければいけないのか。称賛を求めるということはどういうことなのか。

 

ふと四国遍路で出会ったホラ吹きの遍路を思い出した。野宿しようとした駅で出会って、自分は一日60キロ歩けるとか、托鉢したら3万円はもらえるとか、そういうことを言い続ける人だった。反論はしなかったけれど、僕は疲れて、早く別れようと思った。次の朝別れて、その日はたまたまいつもより調子よく歩いて宿をとるとまたその人と一緒になった。その人は本当なら自分はもっと先にいけるのだが、と言い訳した。

 

僕はうんざりしていたし、次の朝別れてもむかむかしていた。だが、ふとあの人は自分の本質を表現しているんじゃないかと思えてきた。あんなマシンガンのように自慢話はしない。だけれど、所詮自分の考えていることなんて強迫的に評価をもらおうとしているばかりなんじゃないか。彼よりあからさまじゃないだけで、むしろたちが悪いぐらいじゃないのかと思った。四国遍路で自分に出会ったというならあの人のことだなと思う。

 

そしてうぬぼれやの話しを聞いた今、人と関わる時、あのように強迫的な自慢話をせざるを得ないあの人の心とはどういうものだったろうかと思う。誇大にした自己としてでなければ人と話せないなんてどういうことなのか。裏返しのあの人は、どこまで卑小で圧倒された存在なのか。バレる嘘をつかねばならない行き場のなさ、どんどん場所を変えていかねばもたない関係、それでもなお人との関わりを求める。そんな苦しみなど当時は想像もしなかった。

 

西川さんは自尊と自愛を分け、前者がいわば条件つきの自分の肯定であるのに対して、後者が無条件に自分を愛することだというふうに言っていたと思う。どういうことなのか考えてみた。

 

たとえばプライドの高さなどは、自愛が低いことへの補いとしてあると思う。本当は自分の価値の低さに恐怖している。そんなことを認めることはできないと、強く塗り固める自分の殻。だがどんなに殻を強く厚くしても、それが本当は脆いという不安を拭い去ることはできず、強迫的に自分を大きく見せたり、相手をコントロールしようとしてしまう。

 

自意識としての自分とは、言葉を通して見える自分だと思う。言葉によって自分と対象を分けることなくして、自分が何であるか、相手が何であるかを認識することはできない。そして言葉を通して見える世界とは全てが序列づけられ、価値づけられた世界だ。物心ついた小さい子は自分と大人との違いや自分の無力さ、卑小さを屈辱的に感じているだろう。言葉によって自分が認識されることは、そのようにお前はこれだと烙印を押されるようなことだと思う。

 

そして傷ついた自分の意味を、価値を、補うために何かに秀でようとしたり、自分の意味を一番高くできる価値にしがみつこうとする。だがそれは条件つきのものであり、いつでも失われる可能性があるものだ。どんなに安定的なように錯覚しても、やはりその不安は心の底を走り回っている。

 

自愛とは、基本的信頼感だろうか。条件つきでない肯定性。自尊が条件つきの肯定性をかき集めるようなものであることに対して、自愛はかき集めることを必要としない。「すること」ではなく「あること」に価値が移行しており、「すること」にもはや心が左右されない。「する」存在としての自分の価値から「ある」という価値への移行はどのように行われるのだろうか。

 

自分が四国遍路をした時、それまではまるで生きていける感じがしなかったのに、まあ大丈夫じゃないか、というような感覚への変化があった。それは自分のなかの相対的なものではあったが、しかしそれがなぜおこったのか。自分では、多くの人が実際の振る舞いや行動までにはしなくても、本当は自分が見た人をおもんばかり、何かをしてあげようとしているということを知っていったからだと思う。

 

遍路の格好をすれば、地元の人たちは親切がしやすい。遍路は接待を断ってはいけないということになっている。つまり自分が遍路に対して好意的な働きかけをしてもその遍路に否定される心配は少ないということだ。そして遍路であれば、その人のニーズ(どこへ行く、何が必要、とか)が把握しやすいということがある。

 

足を痛めてひきずって歩いていた時に、走っていたスーパーカブの女性がキッと止まり、二千円をくれたことがあった。大雨に振られて濡れているのにも関わらず、声をかけて車に乗せてくれて送ってくれた方もいた。それまでは何も言わずとも、道を間違えた時は、後ろから声をかけて行動を修正してくれる人たちがいた。旅は見守られていた。人は自分が思っていたような存在ではなかった。それは、人間観、世界観の変化だっただろう。

 

自分が意識していなくても、そのつもりでなくても、世界に対して自分は投げかけられており、そして世界は自分が思っていた以上に応答してくれるものだった。それは自分のなかにあった、世界のイメージが更新されたということだったと思う。世界イメージとは世界と自分の関係性のあり方のイメージだ。

 

そしてその信頼は、だんだんと愛着を強めるように増やされるのではなく、自分の否定的な信念の破綻としておこると思う。獲得され固定化された信念が破綻したところに、流れ入ってくるものがある。流れ入ってくるのは条件つきの肯定性ではなく、条件づけ自体が一部分であれ、成り立たなくなり、壁に風穴が開くように破綻したのだ。そこには言葉が遮断する前の世界との一体性、烙印を押される前の状態がやってくる。そして精神の呼吸が回復する。

 

信頼とは、世界が自分の持っている否定的信念とは別のものだと明らかにされ、持っていた否定的信念が棄却されるということであるのだと思う。自分の基本的信頼、自愛を回復するために、完璧な世界が必要なわけではない。自分の否定的信念に破綻し、閉じられた空間に風穴が空けられる。それで十分なのだと思う。

 

だから「ある」ことへの価値が移行したときには、もはや条件が必要とされない。世界は自分が持っていた否定的信念の通りのものではない。世界が与えてくれるのは、自分が提供しているからだと信じていた。が、世界とそんな取り引き関係はなかった。それを知るだけで十分なのだと思う。