マジョリティはマイノリティからしてみれば無意識、無感覚、鈍感だけれど、もともと強い被害者意識を持っている。今でも〜しているのに、なぜこれ以上自分が持っているものを割かねばならないのか、不当だ、となる。それはマジョリティが自分自身に対してより深く強い抑圧を内在化させているからだ。
「彼らは劣っているから、穢れているから差別して当たり前」と言うのが古典的差別。
— 田村貴紀 T.Tamura (@randyjoye) August 3, 2018
「すに差別はなくて人々は平等なのに、彼らは過剰な要求をしてくる」というのが現代的差別。
在日差別も、LG BT差別も、女性差別も、この2つの差別を混ぜ合わせて出してくる。 https://t.co/GDBKr41fIS
内在化された抑圧は、自分自身の精神が安らぐスペースを奪う。よって生活水準に必ずしも比例せず、内的には疲弊し、被害者意識を募らせている。マジョリティは、自分自身の抑圧によって自分が辛いのではなく、実は無自覚に自分が犠牲を払って辛い思いをしている「守るべきこと」(それは社会からの抑圧だが)を守らない輩がいるから自分は不当な扱われ方をしていると、抑圧を外に投影する。
強いものにその怒りが向かわないのは、その根本的な向き合いを引き受けることによってさらに葛藤を抱えこんでしまうからだ。自動的に怒りは弱者に向かう。自我の防衛機能は葛藤を逸らすことであって、それは無自覚に、機械的に遂行される。
誰かが暴力的な行動をした後に、怒りで理性を失ったと釈明されるが、理性を失ったというにも関わらず、強いものにも無差別に攻撃がいくかといえばそうではなく、攻撃対象にはきちんと弱いものが選ばれている。