降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

抑圧への向き合い カプセルの壁を壊して

フレイレは被抑圧者は抑圧者を内在化させていると指摘する。昨日、人と話していて、マイノリティ、マジョリティという言葉より被抑圧者、抑圧者という言葉の方がその指すところがはっきりしているのでは、誰もがある時は被抑圧者でまたある時は抑圧者なのだからそれを含めれば一般的な言葉として受容されやすいのではという話題が出た。

 

確かに内実がはっきりしているし、僕はそう考えて妥当だと思ったけれど、世間をイメージしたとき、誰もが抑圧者であり被抑圧者であるという理屈を伝えても、自分が抑圧者だと受け止められるのはかなり懐の深い人であって抑圧という生々しいリアルな言葉はそもそも忌避され、拒否されるように思えた。被抑圧者と抑圧者という言葉にはその解放に向けた向き合いが内在化されている。

 

そんな向き合いなどしたくない。これ以上私のささやかな時間と安楽を奪うなというのが自己責任の国の態度だと感じる。強いものに加担し、その暴力性には目をつぶる。そのかわりに与えられるカプセルホテル的プライベート。それに満足せよと言われ従う。

 

公的存在、共にある存在であることを放棄して、カプセルに閉じこもり、そこを充実させよ、その牢屋のなかはお前の王国だと。そしてその欺瞞の王国を守るために、秩序を変えようとするものを陰にひなたに抑圧する。連座を恐れ秩序を変えようとするものを押しつぶす奴隷たちの国。それが自己責任の国だろう。現状を変えるつもりなどないからひとかけらたりとも今の自分の分け前と安楽を減らすな。既にその執念の亡者と化している。

 

そんな奴隷であることはもはや割りに合わなくなった人たちが向き合いをはじめる。内在化させた抑圧者から自分を解放していくために、カプセルの壁を壊して他者と世界との対話をはじめる。

 

世界を変えるというのは実は対話を成り立たせるための仮のゴール設定だ。世界が変わらないならやらないというようなギブアンドテイクの消費者が内在化しているなら自分の解放は滞るだろう。

 

そして仮とはいっても本気になれないゴール設定なら自分が変容にいたるプロセスが生まれない。最終的な勝利はやってこないかもしれない。だからそちらではなく、自分の内在化したものを徹底的に解き放っていくための対話をしていくのだと考える。内在化した認識が変容した時に見える世界は新しい。