降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ゾンビが人に呼び戻されるために

Dead & Buried(死と埋葬:邦題はゾンゲリア)というゾンビ映画。ある村の住人は全員がゾンビで、村に近づいた人間を惨殺し、ゾンビにして村人にする。現代の寓話だ。ゾンビがゾンビをつくっていく。

 

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フレイレは被抑圧者こそが社会を変える力を持つという。教育哲学者林竹二は、被差別部落定時制湊川高校の生徒たちに出会い、その変化の大きさに自らの世界に対する絶望の気持ちをあらためた。

 

生きる力とは崩されたバランスに対して反発する力だ。死に向かう方向への反発。生きることは、死に切れなさに駆られている。何がなんでも死ぬわけにはいかないという強く盲目的な動機が底にある。それは危機が去った状態では現状を前提として自身をそこへより細かく一体化させていく。一方で、危機的状況では、最も弱い部分を強引に補うような強い力を発動させる。

 

草は風に揺れる部分を刈られると伸びることを抑える。伸びることが不利に働くと認識するからだ。一方で、地際で切られると強く反発して伸びようとする。激しい危機に対しては、強く盲目的な動機が動く。

 

人間もそうなのかもしれないと思う。揺れる部分を伸びたらその度に刈られると、揺れる部分を作らないようになる。草が伸びないのは人間には都合がいいが、人間はそんなふうに扱われるとゾンビになっていく。従順でそして自分と同じでないものを憎むゾンビに。

 

いや、人はその度に刈られなくても、ごく自然とゾンビになっていく傾向をまず持っていると僕は思う。強いものに身を委ね、弱いものの抑圧に加担する。そのことに気づいているかいないかに関係ないほど、ごく自然に。生きることが最優先という生きものであることの呪い。揺れる先端の部分だけを細かく刈ることはその傾向をさらに促進させるということなのだと思う。

 

強く抑圧された人たちは、地際で切られた草のようだ。従順さなどもはや選択肢にはなくなる。荒い根を張り、ちっちゃなバランスや整い、さしあたっての生きやすさなど関係なく、強く反発する。しかし、そのとき同時に、ごく自然にゾンビになるという人の傾向すら壊すのだと思う。地際で刈られたために息も絶え絶えだけれども。

 

強く抑圧された人たち、強い危機に遭遇した人たちは、そうでない多くの人がごく自然にゾンビになってしまうのに対して、人間になる可能性も持っている。そしてゾンビのなかの人間の部分を呼びおこす力も持っている。

 

人間になる力を持った人たち、ゾンビを人に呼び戻す力を持った人たち。半ばゾンビになった人たちも、危機にある人が人間として回復していくことに関わることによって、人として呼び戻され、人の割合を増していく。

 

強く抑圧されている人、危機にある人は、人を人にする潜在性をあわせ持っている。彼らを助けることは、自分自身を人間として呼び戻してもらうこととなるだろう。救われ、助けられているのは自分のほうだと知れるだろう。