降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

フレイレの現代性 里見実『パウロ・フレイレ「非抑圧者の教育学」を読む』

里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』


遠い外国のことではなく、身の回りの社会にそのまま当てはまるようだ。旧支配層が温存された戦後の日本、男尊女卑、セクハラ、ネット右翼の思考パターン、ワタミ的経営者たち、歪んだ体制ではなく、声を上げる人、人として回復するために支えを求める人自体を迷惑として嫌う人々、マイノリティへのバッシング、東京オリンピック、相模原事件・・。

 

しかしほんとうに対立関係が克服され、解放された被抑圧者たちによって新しい状況が樹立されても、かつての抑圧者はしばしば自分が自由になったとは認めないものだ。逆に自分が抑圧されていると感ずるようになるのである。抑圧者としての体験のなかで自己を形成してきたかれらにとっては、かつて自分が持っていた他者を抑圧する権利を奪われることは、なにごとによらず、己れにかけられた抑圧なのである。

 

彼にとっては、人間としての個人は、自分だけだ。ほかの人間は「物」にすぎない。彼にとっての権利とはただ一つ、自分が安泰に生活する権利であって、それは他人の最低限度の生存権にたいしてすら優越している。彼は被抑圧者の生存権をおそらく承認しているわけではないが、ただ仕方なしに許容している。彼らが存在するためには、そしてみずからの恩恵を誇示するためには、とにもかくにも被抑圧者が存在することが、なんといっても必要であるからだ。

 

かくして人間としての存在証明は、結局は「物」の所有に還元されていく。それは、排他的な権利、あるいは世襲的な属性として、何かを所有することなのだ。人間として存在することができるのは、持てる者だけだ。ほかの人間が、彼と異なる階級の人間が、人間であることを主張することは、とりもなおさず、体制破壊行為なのだ。そうした人間が人権を主張するのは、分をわきまえない反逆行為であって、自己実現とはみなされない。

 

自分だけが排他的により多くを持つということは、けっして非人間的な特権ではないし、他人に対しても自分にたいしても、なんらやましいことではない、それどころか、それはひとつの不可侵の権利だ、ということになる。この権利は、精励努力して、あえて危険をおかした勇気の賜物として、「我がものとなった」権利であって、その他大勢がーあのヤッカミ連中がー何も持たないのは、かれらが無能であり、怠惰であるからにすぎない。おまけにわれわれの慈悲深い行為にたいして、あのならず者たちは忘恩を持って報いることしかしない、というわけだ。忘恩と妬みを抱く者たちであるがゆえに、非抑圧者は常に潜在的な敵とみなされ、不断の監視と警戒が必要な人間たちと考えられている。

 

所有への渇望に己れを委ねて、人をもふくめた万物を生命なきものと化していくこの抑圧者の習性は、あきらかにサディズムと重なりあうものだ。フロムは言う。「他者を(そして他の生命体を)思いのままに支配することに歓びを感ずるのは、サディスティックな衝動の本質そのものである。同じことをこうも言い換えることができよう。サディズムの目的は人間を物に、生けるものを死するものに変えることであると。余すところなく管理し統制することによって、生命はその本質を、すなわち自由を失うからである」(『人間の心』)。かくして抑圧者の特徴のひとつであるサディズムは、世界のとらえ方に置いて、きわめて死屍愛好的な傾向を示すことになる。彼の愛は倒錯的な愛、生命ではなく死せる者への愛になっていくのだ。

 

より徹底的に支配するために、抑圧者は、生の特徴ともいえる探究意欲、反抗、創造力を抑え込もうとするが、それはまさに生命の殺戮なのである。

 

かれらはまた、この目的に資するためにますます学問を利用するようになるし、抑圧的な秩序を糊塗したり維持したりする手段としてテクノロジーを駆使するようになっていく(マルクーゼ『一元的人間』『エロスと文明』参照)。

 

彼らの思考のなかでは、非抑圧者は対象にすぎず、ほとんど物といっても過言ではなく、したがってその行為に目的意識性はない。抑圧者が彼に与えた目的、それが、すなわち非抑圧者の目的でなければならないのだ。