腐敗に対して
腐敗はどこからとめることができるだろうか?
もちろん足元からだということになると思う。
対話がおこりうる環境を作っていく。
人の話しを聞くということがどういうことなのか、一般には理解がないので、どこへ行っても話しの勢いの強い人が場を支配する。衝動が強い人同士がパン食い競争みたいに相手を押さえて自分が自分がといくので、せっかく人が集まっていても他の人たちがどのように感じているか、考えているかはなおざりにされる。
あるいは、相手の話しがどういう意図なのかを確認することなく、違う理解をして勝手に怒りだしたりして、話しが進むどころかむしろスタート地点より後退していく。ネイティブ・アメリカンが木の棒で順番を決めるような、そういう簡単な仕組みであってもあえて話しの場に導入するところにあまり出会わない。話しをすること、対話をすることへの配慮は一般には無視されているといえる水準だと思う。特にグループの場合、飲み会すればいい、懇親会すればいいという以上のことはもう考慮されない。
いつも懇親会でなくて、たまには哲学カフェ(哲学対話)をしてみるのはどうだろうか。話しあうとはどういうことか、ちょっとそこの人でやりとりしながら確かめてみるのはどうだろうか。あるいはたまには懇親会にファシリテーターを入れてみては。自分がどんなパターンで相手と話しているのか、相手を支配しているのか。それに気づく機会が必要だ。
一人一人が話しをするとはどういうことか、対話はどのようにおこりうるのか。それはつまるところ場を支配する強いものが支配するままにさせないという仕組みの導入と個々人の学びによる変容によると思う。
お互いが変わっていくとき社会が変わる。自分一人が同じ思考、同じ態度のまま知識やスキルを蓄積してマッチョになっていっても、周りの人はそのますますの殻の強化ぶりに、あの人はやっぱりあかんという意識を強めて遠ざかってしまう。
一人一人が今のままで、集団をつくり、社会に働きかけていくことに展開があるようには思えない。一人一人が現実に変わっていく学びの場が必要だ。