降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

対話 学び 出会い それぞれの言葉の含み

対話、学び、出会い。

 

これらの言葉は共通する要素を持っている。これらは自分の認識が更新される事態に関わる言葉だ。だがそれぞれに含まれているニュアンスはやや異なる。何が異なるのか。

 

対話は、更新に至る過程、あるいは更新にいたるためのやりとりのあり方や態度、手段についての言葉であるように思われる。

 

モノづくりの時、モノとの対話という表現が使われる。もちろんモノはしゃべらない。ただモノとしてあるだけだ。一方、人間のほうはそこに何かの意図をもって関わっていく。モノは人間が何かの意図をもっているか関係なく、ただそれ自身としてあり、いかなる譲歩も妥協もしないために、人間はモノに対して自分の意図を遂行するためには、そのモノの理を知っていくことが求められる。そして遂行が困難であればあるほど、モノだけでなく、自然のあり方や、そこへの自分の関わり方、そして自分自身について知っていくことが必要になってくる。

 

そこに厳然としてあり、行き先を阻む壁に対して、人は自分のいい加減な認識、思いこみ、怠惰さ、投げやりさといったものに対峙し、それらを取り除いていく。自分と世界との応答的な関係を阻害していたものに気づき、それらを外していく。その時に、モノのあり方は変化する。それはあたかもモノが応えてくれただけでなく、導いてくれたような感覚も生むだろう。モノはあたかも自分を深く導くためにそのようにあったかのように。

 

このようなモノとの対話のあり方を踏まえると、対話というのは、相手を知ったり理解するためには、まず無自覚だった自分のあり方に対峙し、関係性を阻害していた認識や態度に気づき、それらを取り除いていくということに力点がおかれるものだということが見えてくるように思える。今の自分がもつ認識のまま、もっている力で状況を無理矢理に変えようとしたりすることを「努力」と錯覚しがちだが、気づきを後退させることは、状況を拗らせ、停滞させることに繋がるだろう。

 

状況を停滞させている要素をいかに取り除いていくか。それは自分以外の場の構造についてもそうだが、自分のなかに内在していて無自覚なものに対して、いかに気づきを向ける状況を作れるのかという試行が必要だ。話しの場における対話とは事実上、お互いに探究しながら、そこにある停滞要因を一つ一つ発見し、取り除いていくこの試行の作業のことだろう。対話を「する」ことはできない。対話は「おこる」ものであり、そこにあった阻害要因が取り除かれていくことによって、自律的なものがそれ自体の力によって浮かび上がり、場と人が更新される事態だ。

 

先に、仁藤夢乃さんの投稿のシェアした際に、既に上から目線だったり、暴力を振るってもいい相手だと認識しているようなこと自体が既に対話を不可能としているという指摘があったが、対話を「おこる」ものと考えるときは、そのような無自覚な認識自体も気づき得るような場の設定が必要だということになる。対話ということを想定するとき、そこで自意識ができるのは、無自覚なものに気づき得る場の整えであり、そのための試行のことである。それは狩りをするような周到な意図と一つ一つの吟味を必要とするものであるだろう。


 

以上のことから、対話という言葉は基本的に、変容がおこりうる場の設定や手段、相手とのやりとりの試行を指していると考えていいのではないかと思う。

 

学びという言葉には、意図され、ある種の方向性をもって繰り返される更新、そしてその結果として、世界に対してより豊かな関係性が開かれることといった含みがある。対話という言葉に比較して、継続性、個人の意図的な方向性をもった更新といったニュアンスがある。意図や継続性といった側面に力点がおかれた言葉なのかと思う。

 

出会いという言葉は、シンプルに更新自体を指すものだろうと思う。対話が整えと試行によって阻害要因を取り除いていった結果、出会いがおきる。学びという意図的、継続的な関わりのあり方が重ねられていった結果、出会いがおこる。学びの場合も、蓄積ではなくて、吟味の末の棄却が重ねられることによって出会いがおこるということだと思う。

 

対話は「する」ものではなく、「おこる」ものといってきたが、実際に「おこる」のは出会いである。出会いは意図できぬ事態であり、予想しない変化である。このことを踏まえ、人は整えと無自覚なものを明らかにしていく試行しかできないことを理解するとき、それは対話と呼ばれるものになり得るということだと思う。