降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

里見実 『「被抑圧者の教育学」を読む』

里見実さんが難解と言われるパウロフレイレの「被抑圧者の教育学」を解説してくれる本。序章からしてよかったので一部を転載。


対話とはおしゃべりではなく、自分が投げ込まれたこの世界について話しあうことなど、本質が掴まれている。僕は問題を個人の心のうちのこととして閉じ、社会の歪みを問わない臨床心理学へ疑問を持っているが、そういうところもきちんとこえられていると思った。

praticaという言葉を、フレイレは意識的な「実践」という意味で使っているようですが、しかしこの言葉は、そればかりではなく、惰性的な行為、つまり「慣行」や制度化された行為を意味する言葉として、昔から使われてきました。

「慣行」としての教育はまさに「抑圧」の行為であって、私たちは通常そういう「教育」に馴染んでいます。「ほんとうの教育」などとよく言いますが、抑圧こそが教育の「ほんとうの姿」なのかもしれないと、私などは日ごろ疑っています。「教育」とか「教育する」などという言葉に出会ったら、ちょっと身構えたほうがよい、と

 しかしその「抑圧」を本質とする「教育」という制度を、その本質とはずらした実践の場、自由と解放の行為に転換していく可能性をフレイレは信じていて、その「反転」の契機を探っているのです。

 彼が求めている「反転」の条件は、(略)『伝達か対話か』の題名として示されています。この本の原題はextensión o comuniucatiónで直訳すると「普及か、コミュニケーションか」となります。

「普及」という言葉は私たちの周辺でもよく使われます。商品の普及とか知識の普及、(略)フレイレが亡命先のチリで主要にかかわったのは、こうした農業技術の普及員や民衆教育に携わる人びとでした。こういう人たちがおこなっている「普及」という仕事の在り方に、彼は根底的な疑問を投げかけたのです。普及という概念には、以下のような意味あいがふくまれているというのです。

 伝達、能動的な主体すなわち伝達し・教育する者たち、伝達され教育される受動的な客体、伝達される内容の優越性と伝達される側の劣等生、伝達内容が伝達者側によって一方的に選定されること、またその内容の固定性、交付行為、メシアニズム(救済観念)、機械的注入、文化侵略

 伝達や普及は、結局のところ、抑圧の行為です。抑圧の行為として機能している教育を解放の行為に変えていくための手がかりは、普及をやめてコミュニケーションをつくりだしていくことです。コミュニケーションというのは、場のなかの行為ですから、コミュニケーションを創出するということは、伝え合いと相互思考の場をつくりだす、そういう人間の関係性をつくりだすということです。

 フレイレが対話やコミュニケーションと言うとき、それはモノやコト、つまり現実を媒介にした対話なのであって、とりとめのないおしゃべりのことではありません。それは自分たちが投げ込まれている世界についての対話なのであり、間合いをおいて世界を見つめ、それに向かって問いを発し、様々な考えをおたがいに出しあいながら、考察を深め、問題解決のための行動を模索する「意識化」の実践なのです。

 大劇場やマスメディアの華麗なスペクタクル、役者たちの巧妙な演技は、しばしば観衆を受け身の「観客」にしていきます。人々が主体であることを放棄したときに生まれてくる文化を、フレイレは「沈黙の文化」と呼んでいます。沈黙といっても、何も言わないということではありません。口をついて出てくるのは、すベて他者の言葉、主人が、先生が、専門家が、テレビのコマーシャルが、世間の「みんな」が言っている言葉、それが「沈黙の文化」なのです。

 人びとが沈黙の文化を乗り越え、世界を対象化しつつ、それを現実の行為によって変えていくためには、自由のための文化行動、「解放の実践としての教育」が不可欠です。しかし、それをおこなう主体は人びと自身であり、全ての主体の行為がそうであるように、それはみずからの経験、自らの世界認識から出発して、それをふまえつつ、しかしそれを乗り越えていく「学び」の過程として組織されるものでなければいけません。厚く閉ざされた現実のとばりの向こうに、ありうべき未然の可能性を探る、知的な長征でなければなりません。

「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えているとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしか考えることができないし、他人に向かって、その他人なしには思考することができないのだ(『希望の教育学』P163)」

 フレイレの名は何かを志向している人たちのあいだで語り交わされていると先ほどは述べたのですが、何かの困難に立ち向かっている人たちのあいだで、と言い直した方がよいのかもしれません。芸術家の実験的な作品は、それを受けとめる読者や観衆との出会いによって、はじめて作品として成立します。出会いによって公衆はそのつど生みだされるのです。芸術だけのことではないでしょう。話すことも、考えることも、作品を創造することも、民衆との対話を志向する全ての知的創造は、成否の定かでない一瞬一瞬の賭けであらざるをえないのです。