降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

日常と非日常 琵琶湖沖島哲学ツーリズム

日常と非日常をテーマに旅をしながら考える哲学ツーリズムに参加。

場所は滋賀県沖島というところだった。琵琶湖に浮かんでいる島。

 

moori.musyozoku.com

 

バスで港まで行こうとするが、先日の大雨の土砂崩れの影響で行くバスがなくなっている。タクシーで行く。


バスが通っていないのも非日常と言えば非日常だなと思うが、普段と違ったり、初めてのものなら全て非日常なのか。何でもかんでも際限なく非日常となっても仕方がないので絞っていく。


タクシーでもしお金を持ってなかったらどうなるだろうと考える。かなり嫌だが、これも非日常といえるだろう。自分を大きく揺るがすような日常性の喪失というのもある。だがそんなものは別に求めていない。その一方で、自分が求めている非日常というものがあるように思える。洞窟だったり、少し怖そうな神社とか。

 

今回は、後者の感じの非日常を考えてみようと思った。わくわくするような感じをもたらすもの。退屈ではない別の世界に誘ってくれそうなもの。当初は、普段との違いがその感覚をもたらすのかなと。だがそうでもないようだ。小さいがずっと続いていくように見える一本道や分岐点に引き起こされる感覚がある。特定のパターンの風景が現れた時はそれを非日常的なものとして感じるようだ。


自意識にとって、基本的に世界はメリーゴーランドのように認識されると思っている。違うところにいっても、認識のされ方は同じ。自意識は認識の牢獄のなかにいてぐるぐるとそこをまわっている。それは退屈で倦んだ世界だ。だから自意識をもつ人は感覚のされ方を新鮮なものにしたいという求めをもつと思う。その世界認識を更新するものは、出会いであり、学びであると思う。その時倦んだ風景はまた一新される。やがてまた古びるにしても。

 

日常とは決まった繰り返しであり、同じ規範のもとにある。そこでは固定したり、停止したり、引き戻したりする力が優先になる。一方、非日常的な感覚を引き起こすものは、自分の感じ方を変え、状態やモードを変える。非日常的感覚を引き起こされる時、人は不安定になりつつ別の可能性にも開かれる。

 

非日常的な感覚を引き起こされることで、自分に何らかの自律的プロセスが発生する。それは過去、日常ではなかったような、選ばなかったが起こるかもしれなかった別の可能性を遂行するような動機をもっているのではないかと思う。そして何らかのカタルシスに向かおうとしているようにも思える。

 

非日常は、自分のなかに眠らされていた別の可能性を呼び起こすものとして働いているように思う。もしかしたらその別の可能性が本来だったのではないかと思えるような感覚がおき、ふらふらと動かされる。動かされた結果がそれまでの日常を破綻させるようなこともおこりうるのかもしれない。なにせ自意識はこのメリーゴーランドに倦んでいるのだから。

 

旅は、型にはめられた日常を奪うことによって人を不安定にし、感じ方を変える。旅のなかで人は、自分のリアリティをもう一度手探りで再確認しているように思える。これはこういうものだったのか、あれはああいうものだったのか、と。一つ一つのリアリティを再編していった結果、その集積としての思考や認識もまた再編されうるのかと思う。