降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

別の世界 

強いものがその分だけ周りを抑圧し、幅を利かせる社会。それが野生状態だろう。強いものもより強いものに抑圧され、永遠に闘争を続ける社会。

 

僕は文化とはそういうあり方を辞めようという反逆の試みであると思う。強いものが勝つのは当たり前だが、勝つ合理性のみ追究されていく永遠の闘争の世界など生きるに値しない。そう決別し、やがて負けるとわかっているのに、自分たちの周りに本来あるべきであった別の世界、「じゃなかしゃば」を一時的につくろうとすること。

 

人は水なり食料なりエネルギーなりの自分が生きるために必要な全体のことを自分で考えなくさせられるにつれ依存的になり傲慢になり駄目になる。そうすると社会は小さいほうが人をダメにしない。小国は大胆で根本的な改革ができるが規模が大きくなるとそれは難しい。なのになぜ何千万、何億という「全体」をつくるのか。

 

強いものがより強くなるためだろう。より強さを得て、自分たちが幅を利かせるためだ。そのとき人は部分的な存在になり、本来発達させられた総合的な力や考える力を奪われる。与えられた便利さは他者とのコミュニケーションの必然を奪い、人を孤立化させ、使い捨てだけを意味する「消費者」にされて、疎外に導かれる。「消費者」なんてよく考えたら蔑称といえるのになぜ受け入れられるのだろう。

 

なぜ「人類」などという言葉を使うのだろう。個々で勝手に生きていたのに、一つにまとめ上げられなければいけないのか。まとめあげた時に、自分の力が最大化できるからだ。エネルギーと豊かさの流れを自分の方に集中させる。その共犯者になれば割りにあう分け前が与えられる。矛盾を直視しないだけで、運さえ悪くなければ、「順調」に生きていける。

 

強いものがより強くなろうとする。野生状態の関係性、野生状態の世界に戻ろうとする。おそらくそれは止められない。文化は負ける。だから反逆なのだ。勝ち、圧倒できるなら反逆と言わない。勝って体制をつくるものはやがて抑圧をはじめるだろう。

 

生きることは、つまるところは勝つことだ。だが勝ちだけに覆われていく世界は単なる地獄に過ぎないだろう。それも馬鹿げているのだ。勝つことの宿命に抵抗し、逸脱しようとするところに、やさしさがあり、人はそこで別の世界を感じることができるのではないか。