降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

失われた約束

科学主義が行き着くせば「生きものというものは存在しない」というふうになるだろうという指摘。なるほどと思う。資本主義と馴染みがいいし。倫理を押しこめていける。

 

だが生命と非生命には本質的な違いがないとしたときにこそ、では倫理とは何かということが純粋に問えるようにも思える。倫理が大事にしようとしていたものは何だったのか。剥き出しの暴力からお互いを守るということだったのか。

 

もし記憶を自由に操作できるようになれば、生きる意味はなくなるだろう。どのような記憶を持たされたのか自分では誰もわからなくなる。権力者であっても、そういう記憶を持たされているだけなのかもしれないという可能性は否定できないだろう。

 

マトリックスの世界のように、どのような体験でも自由に与えられるようになったら、「現実の世界」においても、今さら特にやることはなくなってしまうだろう。現実とは、単なる電気信号とかの話しになってしまう。もともと現実そのものを見ることはできず、解釈されて変換されたものを感じて生きているのだから。

 

 

 

そうしたらマンガのほうのナウシカを作った人類のように、自分たちを体を持たずにいつでも取り出せる記憶として保存するかもしれない。特にわざわざやることはないのだから。誰かが将来取り出してくれるということだけ信じられればいいのだ。生きることは、どんな周到なケアがされていても、ものすごい苦しみを負うリスクもある。そんなリスクを負う必要があるだろうか、と考えないだろうか。

 

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

 

 

 

そう思うと、意味とは苦しみに対する代償としてあるものではないかと思えてくる。今現在のどうしようもない苦しさ、無自覚であっても底にもつ苦しさがあって、しかしそれを補え、あるいは補った以上のことを与えられるという約束(と思えるもの)が意味なのではないだろうか。意味を失ったとは、約束を失ったということなのだ。