降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

本の作成番外 構成の試行

本の中身の構成の仕方、パソコンやスマホではなく小さいノートに書いてみることにした。

 

PCやスマホは、顔の前に目がついている肉食獣的な視野になる感じかも。距離感や立体性をよりはっきり認識するかわりに視野は限定される。一方顔の側面に目がついている草食獣は餌のほうは逃げないし、やってくる危険をとにかく早く察知し、避ければいい。対象の細かい動きより、遠くの怪しげなものを先に察知するほうが重要だ。

小さいノートにボールペンで書くのは、比較して草食獣的な視野になる。PCが狭い範囲に集中させることによって、少し強い集中、強い緊張が現れるのに対し、ノートのほうは割と広いブランクのなかに遊ぶ感じがあって、よくも悪くもPCのような強い集中や緊張が弱くなり、そのかわり気楽な思いつきが増えたり、周辺のことがみえやすい。ノートは自分の中のものをピンスポット的ではなく、広い視界で大雑把に出せる。出したものを今回ここで整理しようと思う。

 

整体の稽古に通いはじめて、こういう中動態的な状態をより意識するようになっている。重要なことは、意識で頑張って「やる」ことではなく、何かをすることや媒体の違いなどが、どのような状態を導くのかを体感し、必要な自律的状態の導き方を工夫することだ。意識は切り替え役にすぎず、実際に物事を遂行しているのは状態だ。状態が「やる」のだ。自意識は「自分がやらなばならない」などと「背負う」ことも苦手だし、自意識でやろうとすると負担ばかり多くなってパフォーマンスは落ちる。

 

 

 

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■本の構成(試案) 仮タイトル 「ワーク・イン・プログレス 〜生きることと自意識の扱いの当事者研究〜」

・この本で何を書いているか

 →どうしたら回復しながら生きていけるのか

・自分自身の経緯

・より細かいこと 

 →変容がおこる場 強迫(有用性や評価)の打ち消し

 →自意識とは何か 

 →自意識の位置づけと扱い方

 →強迫を打ち消す人間観・世界観・生きることの見方

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最後の方はまだスッキリできていないがだんだんとやっていく。

次に項目ごとに内容を箇条書きに。

 

・この本で何を書いているか。

生きづらいもの、抑圧されているもの、そういったものがどのように生きて回復していくことができるのか。自分が自分を実験台にして、確かめてきたことを当事者研究としてまとめたものが本書だ。

エネルギーを大きく失っているなら、エネルギーを備蓄していく。エネルギーを減らすものから離れる。そして自分の内にあるものがエネルギーを減らしているのなら、その状態を更新して変えていく。外的環境をよい方向に変えると内的環境は影響を受け、また外的環境に働きかける力を得る基盤が与えられる。この循環をどうやって自分に引き寄せていくか。誰でもわかっていることだが、もしある程度の自由が自分にあったとしても、やってみると簡単にはいかず、停滞する。その行き詰まりがどうしておこるのか、それに対してどう考え、どういうアプローチの軸をもつのが妥当なのか。

 

ごく単純にいえば、回復していくとは気持ちの通りをよくしていくことだと思う。何も考えなくても身体に血液がめぐっているように、精神状態に影響をおよぼす自律的な気のめぐりがある。この気のめぐりの通路にある障害物を取り除いていくと、気のめぐりは一層よくなる。人は気のめぐりを活性化させるように行動する。休んだり、積極的に楽しいことをしたりもそうだろう。だが、それだけでは限界がある。生きづらさは変わらない。なぜなら人は大人になる過程で気のめぐりを阻害するものを自分自身のなかに内在化させるからだ。

 

僕のみるところ、子どものころの環境が良かったか悪かったかという以前にもっと根源的に気のめぐりを阻害するものがある。それは言葉だ。言葉によって意味づけられた世界のなかに人間はいて、その感じ方や考え方は言葉によって規定している。言葉によって作られた世界の見え方、感じ方は固定的で機械的あり、更新されるまでずっと同じように体験され、感じられる。あたかも永久にメリーゴーランドに乗っているように人は倦み、張りを失い、同時に現実に置いていかれ、ひがんでいく。この拷問のようなメリーゴーランド状態を更新していくのが、回復であり、学びであるといえるだろう。

 

更新がおこるまで、終わりのないメリーゴーランドに乗っている状態が、言葉をもち、自意識を持った人間の状態だ。普段の生活で、なぜこの人は全然妥当でない考えにいつまでも固執し、世界の見方を改めることをしないかと思うことがあるだろう。

 

PCやスマホは、OS(オペレーションシステム)がなければ動かないし、使えない。だがOSは常に更新されなければ、本体を生かすことはできず元々の潜在性を殺してしまう。このOSにあたるのが自意識だ。一般には、人の心は生きていると思われているかもしれないが、どのようなものであれ、今の更新されていないOSを通してしか、物事は認識できない。見えていること、そしてその結果感じられていることは、古いOSを通して位置づけされた仮想現実なのだ。仮想現実は大昔に言葉の定着した時代から既に生まれている。

人間も生きものなのだから、OSとしての自意識がなくても、生きていける仕組みになっているのだが、あえてこの認識プログラムをいれてバーチャルな世界を頭に描くことによって、他の生きものができない逸脱をして、より強い力を得てきた。だがこのOSは、もともと利用するために取り入れたのだが、今やOSがもとの生きものの体を奪い取り、主人公になっている。ところが奪い取りという統制支配によって、体が自然や時間の流れと切り離されているので、自意識が何かをやろうとすると、ガタガタの硬直的動きや過去に学習された動きしかできない。あたかもできの悪いロボットのように。

 

そこで人間は、この言葉で組み上げられた自意識というOSの統制支配を一時的に停止させ、打ち消して自然との応答性や時間の流れと自分を接続する技術も高めてきた。周到な準備がされ、命を危険にさらし人間の深い内部を揺さぶって人の状態を変える昔の成人儀礼などはその代表例だ。

 

また自意識の支配が打ち消されるような高い集中状態を導くと、人は環境との応答性を取り戻し、自意識の力をこえたパフォーマンスを発揮する。ブルースリーという武術家でもある俳優が「考えるな、感じろ」というセリフを残しているが、それも高い集中による自意識の強制支配状態、体に戒厳令をしかれたような状態を打ち消すことを意図していると思われる。

 

 

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通常の状態、つまり自意識の強制支配状態を打ち消すということが、自分の感じ方やエネルギーの減少、生きづらい状態を移行させていくことに重要な役割を果たす。これから書いていくことは、自意識の扱いについてであり、自意識の感じ方を規定している言葉の扱いについてだといえる。

 

なお、言葉の扱いとは、ここでは礼儀正しい言葉にするとか、そういうことではなくて、言葉はそもそも仮想のリアリティ(現実味)を発生させて人に何かを感じさせたり、そうだと思わせて動かしてしまうものなので、余計な感じ方や停滞をもたらすように組み上がっている言葉、たとえば人間観や世界観などだが、そこからどう停滞を引き起こすような強迫を取り除き組み上げるか、ということを意味している。

 

 

・自分自身の経緯

フラッシュバックの苦痛を軽減するために、どのように世界を捉えれば自己否定的な影響を受けなくて済むのかを考え始めた。心理学科に入り、だがそこに疑問を持ち、この社会のなかでどう自分として回復しながら生きていくのかを知ろうと思い、心理以外の分野に目を向けるようになった。四国八十八か所めぐりをしたり、催しを企画したり、糸川勉さんから作物作りを通した自給の思想を学ぶ。本番でありながら同時に試行である「ワーク・イン・プログレス」を生きることが人の生きる力を活性化させる。自分のこれまでの経緯を通して、この本で書かれたことの「フィールドワーク」の部分をここで書く。

 

・人が変容する空間

安心安全信頼尊厳が提供される場では、人のなかに自分を更新する自律的で回復的な蠢動が生まれてくる。そのような空間はどのように作られるのか。このような空間は実はあらん限りの肯定的要素を盛り込んでいるわけではなく、強迫の打ち消しとしてある。重要なことは、ある人がもつ強迫を打ち消す効果がそこにあったかどうかということで、その意味では場づくりした人の意図が破綻した時に、ある人にとっては内在化した強迫の打ち消しに足るものが生まれるということもありうる。何かが打ち消し足り得たかどうかの詳細は、変化がおこったということによって事後的にしかわからない。打ち消しとは強迫的な意味の打ち消しであり、それはつまり自意識が強迫を受けていることによる防衛発動状態、北風(強迫)に対して服を着込んでいるような状態を解除することであると思われる。肯定的な価値をそこに満たすのではなく、否定的な強迫を無化することに意味がある。ともあれ、空間を作る際も、つまるところは自意識の防衛状態、反応状態を解除することが重要なので、自意識の扱いの問題であると思われる。

 

・自意識とは何か。

自意識は言葉で成り立っている。自意識の機能は動かすことであるよりも止めることである。動きはもともと自律して存在しているので、止めているものを取り除けば動くと考えている。意識される自分、確認される自分は自意識。学び、回復とは自意識の更新であり、そのことにあるメリーゴーランド状態が新しいメリーゴーランド状態へ移行する。その時世界の新鮮さが取り戻され、気のめぐりの器の状態が以前のものよりめぐりに適したものになる。自意識の統制支配状態を一時的に打ち消すことができるようになることがあらゆる移行の基礎となる。武術などのパフォーマンスなどの話しも含めて書く。

 

・根源的苦しみが生きる力そのもの

自意識の位置づけをしたうえで、個人が何により充実を感じ、エネルギーを得るのかをたどると、根源的苦しみを乗り越える体験を自分自身に与えることであるようだ。個々人は無意識でも自分の根源的苦しみを乗り越えるものに関心をもち、逃げようとしても遠ざかることはできず、その周辺を惑星のようにぐるぐるまわる。この根源的苦しみも言葉によるもので、言葉によって矮小に惨めに打ち捨てられた自己規定がなされたことへの反発の力が常時湧いており、それを乗り越えようとする動きに充実を感じ、力が湧く。根源的苦しみを解決しなければいけないのではなく、強い力を出すものを利用することで、生きていくことがしやすくなるということ。

 

・殻について

生きものは問題がなければ余計なエネルギーやリスクを負わず、同じままでいようとするもの。そもそも生とは、同じ状態、恒常性を保つということだ。明らかな危機に陥るまで余計なことはしないし、できない。人間もまたそうでなり、「成長」や「発展」を価値として、人を駆り立てることは多大な犠牲と無理をはらむ。「成長」や「発展」とは人を追い詰め、あるいは過剰に高揚させ、暴走させることによって成り立つことなのだと考える。

また人間は強い保守性をもち、その殻を第三者によって壊されなければ、どんどんと殻を厚くし、無感覚になる自己疎外性を持っている。他者と関わることは傷つくことであるが、傷つき抜きに自己疎外の進行を止めることもできない。だから世間の保守性はそんなに変わらないだろうと思われる。そのなかでどう自分たちの場所や空間を作るかということになるだろう。生きることは、通り過ぎていくことでもある。突然余命3ヶ月と告知されたとき、地球の運命とか、人類がどうとか、そういうことはもう問題にできなくなるだろうと思う。社会や世間を完全に変えることが良いのではなく、自分なりの世界とのぶつかりと対話ができたことが、生きたということになるだろう。人類とかそういう大きい括りは死を前にすれば幻想にすぎない。そして誰もが死を迎える。種の運命など一個体が背負うことはできない。一個体は一個体として生きればいい。

 

 

さて、後半苦しくなったので、もう少しまたノートに書いて整理し直してみようと思う。