降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

読む!倶楽部読書会 セトウツミ そしてヨコハマ買い出し紀行

阪高槻市で行われている読む!倶楽部読書会に参加。

今回は「セトウツミ」だった。セトウツミは全く知らなかったが、かなり内容の濃いマンガで、知れてよかった。

 

読書会に来られている方々のそれぞれのコメントも、これまで時間をかけて考えてこられたテーマがあることが感じられるものだった。
 

セトウツミ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

セトウツミ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 

 

セトウツミの舞台は都会の川辺。コンクリートの階段に座りながら二人がただただ喋る。だが緻密に作り上げられた構成には驚く。実はまだ2巻までしか読んでないのだが、ネットカフェで残りを読もうと思う。映画やドラマにもなっているが、原作は別物といっていいもののようだ。

 

一見バカなやりとりがおこる下にお互いの深い絶望への共感がある。頭が良すぎるが硬直的思考で動けなくなっている内海と知識を越えた天性の直観力を持ち、重い状況を軽やかに渡っていく力を持つ瀬戸。しかし瀬戸もサッカー部を辞めさせられるという挫折のもと、行き場のなさを持っていた。

 

現場で言いたいことを十分に言ってしまうとブログに書く動機がなくなる。セトウツミについては今日はこれぐらいにする。

 

初めて行った場だったけれど、2ヶ月に話題提供しないかと提案があり、芦奈野ひとしの「ヨコハマ買い出し紀行」をさせてもらうことになった。ヨコハマ買い出し紀行について、はてなで検索してみたけれど、あまり言語化されているものがなかった。もっと言うべきことがあるだろうと思っていて、あれだけの作品だ、書かれていないことは問題であり、自分が書こうと思った。なのでちょうどよい機会と思った。

 

ヨコハマ買い出し紀行は、世界が、おそらく温暖化等の影響によって、いずれ海に沈んでしまうことが決まっているが、それまでの時間は割と長くあって、その黄昏の時間を生きるロボット(カフェアルファを営むアルファさん)と人々のお話しだ。

 

明日がない時代を生きる人々は、絶望に打ちひしがれて自暴自棄になるわけではなく、その現実を受けとめながら、残った兵器を打ち上げ花火にしたりして楽しむなど、「成長」や「発展」のような強迫からも自由になり、緩やかさを取り戻した日々を送っている。可愛い絵柄で単なる癒し系のような作品のように見えて、下手したらそのままさらっと単なる癒し系(単なる癒し系を否定したいわけではない。)として最後まで読まれそうでありながら、そこに描かれているものは僕にとって衝撃的であり、僕の人間観や世界観はこのマンガに大きな影響を受けている。

 

ヨコハマ買い出し紀行(1) (アフタヌーンコミックス)
 

 

お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころ。

のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間、ご案内。

夜の前に、あったかいコンクリートにすわって。

 

 

コミックス1巻の裏表紙のセリフ。語り手は未来のある時点から、かつてを振り返るかたちで語りかけている。

 

「夜の前に、あったかいコンクリートに座って」とある。自然破壊と非人間性の象徴であるようなコンクリートが肯定的な文脈にのっている。初めてみた表現だ。全てが失われていく世界においては、コンクリートさえ儚いものとして心に触れるものになる。その残ったあたたかみ。

 

昔は、僕は環境保護主義だった。人間が死んでも環境が守られたほうがいいんじゃないのとも思っていた。人間はガン細胞なんだからと。歪み、無自覚で暴走する存在としての人間が嫌いだった。人間より「自然」のほうに共感していた。だがやがて環境が改善されるためには、まず人間が回復しなければ始まらないと思うようになった。そして矛盾するようだが、自然を守ることも含め、「あるべき姿などない」という価値の打ち消された地点で人間が回復することも見えてきた。

 

自然についても考えていった。今の地球の生態系が「自然」なのか? それとも人間の生態系破壊を含めて、おこりうる全てを含めて「自然」といえるのか。今は後者だと思っている。存在というのは、全く突き放されたものだ。ある時、隕石が落ちてきたり、気候が変わったりして、避けようがなく大絶滅がおこるように、それぞれの生は自力を全くこえた条件がたまたま成り立っていることで生きている。

 

この脆さ、儚さの認識が心の震えややさしさの基盤になる。滅びゆくもの。一時的なもの。どんなに確かに見えても、どんなに社会で「格差」があっても、本質的にそのことは誰にとっても変わらない。それは「意味がない」ことともいえる。意味とは将来に対して今の営為が有効かどうかという打算だ。

 

だが、生きものは将来を自力で引き寄せるほど強くない。あらゆる条件がたまたま成り立ったことによって、やってきたことを自力でやったと勘違いし、これからの将来も自分の背に背負う愚かさ。同時にそれは傲慢さを生み、人と人の関係を疎外する。できることとは幻想。たまたま運よくそこを通り過ぎたに過ぎず、それは所有しているものではない。実は何も所有できておらず、それらは時がくれば去っていく。

 

多くの歌は明日なきところから歌われている。そこは心の震えが戻るところだ。そして現実のありようでもある。明日ある世界は幻想であり、人はいつも明日なき世界を生きている。明日ある世界は高揚をもたらすがそのために生きることは心の震えを止めていく。人の回復に必要なやさしさは、明日なき世界にある。


人の回復は、意味という有用性の強迫が打ち消された場所でおこる。この時、自意識の統制が打ち消されている。自意識というオペレーションシステムは、体と精神の時間をとめることによって、体をコントロールする。

 

演奏家や武道の専門家などは自意識による操作のパフォーマンスが悪いことを知っている。自意識の統制を打ち消した時、パフォーマンスは最大化される。自意識をこえたことがおこる。だが自意識が打ち消されているので、そのおこっていることに「実感」はない。自意識の統制をいかに打ち消すかが、内在化した否定性を棄却更新する際にも、体のパフォーマンスを最大化する際にも重要なのだ。

 

物語において、自意識はコンピュータやロボットとして表現される。それらは往々にして局所的合理性しか持たず、その行使は複雑繊細に入り組んだ文脈で構成されている世界を破壊していく。コンピュータやロボットが物語においてなぜか自意識を持ったとき、必ずこのことがおこる。実体を持たないオペレーションシステムが自己保存欲求をもつ転倒だ。物語はいつも人間が持っている構造を反映し、様々なかたちで何度も繰り返し表現する。この転倒は自意識を持った人間自身のことを表していると僕は解釈する。

 

主人公アルファは、マスターに置き去りにされている。ロボットは年を取らないが、周りの人間の友人たちは年をとっていく。子どもが若者になり、老人はさらに老いを深め、死の入り口に近づく。だがアルファは彼らと共に時間を過ごせない。アルファの時間は止まっているのだ。アルファはマスターに、そして時の流れからも置き去りにされている。

 

自意識は、生きているものから置き去りにされ、時間が止まったままの存在だ。だから更新できない人は、いつまでも古いあり方を繰り返す。だが更新が行われる人も、生きているものと同時に流れていくことができない。なぜなら自意識による自己確認とは時間を止めることによって行われるからだ。自分がある時、時は止まっていて、自分は置き去りにされ、孤独である。これはアルファのあり方そのものだ。

 

しかし、アルファは変わっていく。それは生きている人や環境と対話し、やりとりをしていくためだ。自意識は世界との対話によって、代替的に止まった時間を更新し、自分が投影して作られた世界の閉塞を変える、感じることを変えることができる。

 

広田ゆうみさんという俳優のかたが、昔老人ホームのような場所に行った時の話しを紹介されていた。そこである老人が歌を歌い、その後こう言ったという。

 

「こんなきれいなお歌があるなんて、幸せねえ」

 

きれいな歌は自分自身ではない。自分というものは、対象との関わりにおいて、存在する。自分とは、この限界がある体ではなく、記憶でもなく、何かとやりとりした反映として存在しているのだ。自分の本質は関係性としてある。自分自身としては自意識は何も持っていない。自分だけで自分であることもできない。だからきれいな歌が存在し、そこに関われることは幸せなのだ。

 

自分の本質はロボットではない。それは世界との、自然とのやりとりなのだ。それは人間もロボットであるアルファ自身も同じことだ。


ふと、言葉が失われた世界に没入するアルファはのびのびと飛翔し、喜びを取り戻す。そして現実に帰った時、そのことは意識から忘れられ、しかし体は失ったものに対して涙を流している。

 

読む!倶楽部は2ヶ月後だ。もう一度ヨコハマを読み直してみよう。