降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

本の作成番外 丸ごとのみかん

文章を描くときは大体、ある物事の細部を見ていく時に書いている。

 

細部がどうなっているのかをはっきりさせることは、そもそもその物事をどう位置づけるのかを決める時に欠かせない。適切な位置づけができなければ、考えはすすまず、そこに停滞がおこったり、見当違いの方向性が導かれてしまう。

 

このブログでも基本的に、一つの物事の細部がどうなっているか、そしてそこから導かれる世界の見え方はどうか、ということばかりしてきた。確認すると434記事の投稿をしてきて、同じこともなんども繰り返して書いているけれども、それを概観して整理するということをしていない。

 

放っておいたら概観して整理しないのは、自分の器質的なこともあり、あんまり頭のRAM(一時的な処理容量)がなくて、やろうとすると一個のみかんをまるごと口に入れて、噛もうとするけれど、噛めないみたいな気持ち悪さがやってくるからだ。あんまりそういう整理はうまくない。一方、細部をはっきりさせることはすっきりするのでそればっかりやってしまう。

 

だが、それもたまってくると気持ち悪くなる。もう少し縮尺を大きくしたとき、ここの細部の関連性はどうなっており、それがどのように整理されるのか。それがまとめた本を書く動機でもある。

 

今日改めてそんなことを思ったのは熊谷晋一郎さんの綺麗な整理を見たからだった。

 

熊谷 既存のいくつかの実践が源流となって、それが合流して、現在の「当事者研究」という潮流が出来上がっています。

 

一つ目は、いま荒井さんがおっしゃった「語りの文化」ですね。実はアルコール依存症自助グループであるAA(アルコホリックアノニマス)の語りと分かち合いの文化を、統合失調症の自助活動に取り入れたSA(スキゾフレニック・アノニマス)という試みを、日本で初めてやったのが「べてるの家」らしいんですね。当時、海外ではすでにSAはあったんですが、日本ではAAや、薬物依存症のNA(ナルコティック・アノニマス)しかなく、AAと同じものをやってみたいと「べてる」メンバーが提案して、当事者だけのグループでSAをやってみた。

 

それから二つ目の源流は、1980年代の自立生活運動の流れです。向谷地さんは、北海道の小山内さんの「いちごの会」にずっと関わってこられたので、そのあたりの流れがもつ思想も合流している。

 

三つ目は、SST(social skills training 生活技能訓練)とか認知行動療法などの流れです。これらは問題を機械論的な枠組みでとらえ返し、仮説検証的に生活を組み替えていくという部分で当事者研究に方法論的な枠組みを与えている源流ですが、どちらかというと自助というよりもセラピスト―クライアント間の治療の枠組みとしてとらえられがちです。しかし、「べてる」での取り入れられ方っていうのは、かなりアレンジしているようですね。

 

たとえば診察室の中で行うのではなく、現場やコミュニティーの中で行うわけです。ある意味、安全じゃない場所で行うといいますか、まさにトラブルを目の前にして、ケンカしている相手と一緒にSSTをやったりするんですね。診察室の中で、クライアントとセラピストの間でやるんじゃないという点が、「べてる」でのエッセンスなんじゃないかって思います。ですので当事者研究は、物語的なナラティブの文化を持ちつつも、機械論的な観察と解釈、検証の発想も合わさった部分があると思います。

 

synodos.jp

 

同じことを何度も何度も反芻して書くのは、そのことがその周りのこととどのように関係があるのかをはっきりさせたいということもある。大きく整理することとより細部を見ていくことは循環的な関係にあるので、両方やらないと滞ってしまうなと思う。