降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

偽のリアリティとしての左右対称

整体の稽古。

 

体の右と左は対称ではない。
対称とするのは、言ってみれば頭が作ったイメージであって、偽りのリアリティなのだろう。それに倣うことによって、流れている動きが止まる。

 

生きることは体を歪めることだと聞く。力の発揮は、どこかを歪めることによって生まれる。歪みという言葉がそもそもネガティブすぎるのだが、生きる力は、生きものの内部で設定されているバランスが崩れることに対する反発力なのであって、それは矯正して弱めるものではなく、生かすものなのだ。

 

自分のなかで確かめてきて、これはこういうことになっているはずと考えている仮説が、違う分野の人がその分野で確かめ吟味されてきたことと重なるのは嬉しい。

 

相手と手を合わしてその手を押したり引いたりするワークをする。動きが膠着すると、体を内観し、「左右が揃ってしまっているところ」を見つけ、その「揃い」をずらす。

 

「揃い」は頭のイメージによる統制であり、そこで力の流れが止まっている。僕の感覚では、割り箸が一本右と左を繋げているようなイメージだ。内観でそれに気づき、崩す。

 

左右の「揃い」を崩し、とることによって、「時間が流れる」とも表現されていて興味深かった。また「反対を作らない」とも言っていた。左右は別々のものだが、対称になる時、一方とその反対がある。

 

一方とその反対として物事を捉え、アプローチするとき、そこで起こることは膠着状態になりやすい。力と力がぶつかり合い、動きがとまる。

 

徳島県吉野川の人口ダム建設が動き出した時、姫野雅義さんたち市民は「反対派」になるのではなく、「疑問派」となり、正面からぶつかるのではなく、淡々と事実を確かめ、それを公表していき、その上で市民がダムを必要と認めるなら自分たちもそれに従うというスタンスを守った。

 

7人の釣り人から始まった運動は市民全体に広がり、国の公共工事が初めて市民によって止められた事例になった。

 

整体の稽古が面白いのは、力の流れというものがどのようになっているのか、それを自意識の干渉がどのように止めているのかを知ることができるところだなと思う。それは単に体だけのことにとどまらない。内観によって、膠着しているところを見つけ、捉え方を変えることによって、体も場も時間の流れを取り戻し、孤立を抜け出す。