降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

健全な「殻」はあるか レオ・レオニ『せかいいちおおきなうち』

フリースクールわく星学校で殻をつくるという言葉を聞いた。僕は殻という言葉を今まで割と悪い文脈で使っていたが、自意識とそれが学習してきたものが殻なのであって、殻がないというのはあり得ないし、殻がないならそれは人格でもないだろう。

 

家というものは、シェルターであることがその核心であって、雨風だったり、近寄らせたくない生きものとか、安全が確認されてない人とか、そういうものを遮断する。遮断は重要な要素だが、それはバランスが崩れれば牢獄にもなりうるものだ。

 

レオ・レオニの絵本で世界一大きな家(殻)を手に入れたかたつむりが自滅する話しがある。大きく立派にした殻はコストも高く、もはや手に負えない。自分のコントロールの外に行ってしまう。その状態はあたかも殻それ自体が主体となり、自律的に自分を厚くしていくようだ。

 

 

  

せかいいちおおきなうち―りこうになったかたつむりのはなし

せかいいちおおきなうち―りこうになったかたつむりのはなし

 

 

では、殻はどのように位置づけたらいいのか。

 

物語において、心のないロボットが人間に関わりやりとりをしていくことによって、ある現実に入り組む多数の文脈を無視した機械的切り捨てを抑えるようになり、他者に対する配慮や優しさをみせるようになる話しがよくある。

 

自意識、殻とはロボットなのだと思う。そして物語における人間に該当するのが、体の感覚、他者と関わりあう自然なのではないかと思う。自分の内の自然(それは結局外に繋がっているけれど。)ともいえるかもしれない。自分の内なる感覚に自意識が応答していくことによって、自意識は自己疎外を補い、更新されていくことができる。

 

自分のうちの自然は、大抵求めることが自意識にとって面倒臭く、リスクが高いのだが、抑圧せず、応答していくことによって、自意識という殻は「呼吸する家」みたいに世界との関係の健全性を維持するのではないかと思う。自分の内の感覚に対して、応答性を持つことで、殻は不必要なものを適切に遮断し、自分を守りながら、世界に対して健全な関わりをもち、更新の機会を得ることができるのではと思う。