降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

当事者研究 最近のふりかえり

3月に常野雄次郎さんの死去があって以来、感じ方が変わっている。

 

端的にいえば、つまらないことがよりつまらなくなった。時間つぶしが時間つぶしにならない。といってもそうはすぐ習慣は変わらない。できることとして、整理してみよう。

 

より密度の濃いことをやる。そうしないと酸素が足りない。そんな感じだ。

 

これがマシになる可能性を見つけたのは、性的マイノリティの人たちとの関わりだ。その人たちはもちろん性的マイノリティの問題を活動にもしているのだが、それ以外の分野でも活動している。

 

僕は自分が属するカテゴリーとして、農とかオーガニックとか、自然とか、そういうふうに見られる時もあるが、そこはあわない。作物の育て方にものすごく関心があるとか、あれもこれも育ててみたいとか、ない。健康にすごく関心があるわけでもない。自然とかいうと、子どもを持って、みたいな話しになるのも面倒臭い。

 

自然に性的マイノリティに生まれたり、障害を持って生まれたりするのだから、それも自然だろう。性的違和感があって、手術して性別を変えた人のドキュメンタリーをみた。その人はもし手術してなかったら自分は死んでいただろうと述べていた。晴れ晴れとしていた。

 

多くの人と共通する物語からはじかれ、打ち捨てられた個人にとって、種を保存することに何の意味があるだろうか。

 

こうあるべきということはない。それはどういうことか。

 

「普通」とか、あるべき姿、あるべき生き方を人は押しつけられる。意味をおしつけられる。だが生は不条理でコントロールできない。そんな意味などに従ってはいられない。そして人は自分が規定されている意味から逸脱しようとするものだ。

 

文化とは、それまでの放ったらかしのままにされている状態ではあり得なかった可能性を現実化させようとしたものだと思う。ほったらかしのままの状態は耐えきれなかった。それが人間だろう。このようではない、別の可能性を求めてきた。そうでしかなかったものをそうでなくすること。ここから逸脱すること。ここから抜け出た先に見える別様の世界の風景を見ること。

 

人間はそれをしてきたと思っている。というか、生きもの自体がそうしてきたと思っている。海から陸、陸から空へと。粛々と、唯々諾々と「自然」に従ってなどいない。この決まったようにみえる状況に対する反逆をする。それが生きるということではないのか。

 

話しは戻るが、性的マイノリティの人たちは、多くの人が気づかず従っている「そうあるべき姿」では生きられない人たちだ。人が生きることに、生殖とか関係ない。生きるためにある程度強いことが必要だ。しかし優しくなければそもそも生は生きるほどの価値はない。優しさとは、意味という有用性の評価を人に持ち込むことだ。

 

このサバイバルの世界で人として生きるとは、意味という有用性を打ち消した感覚を感じることだ。その時、人は自分に閉じ込められ、固着していた状況から抜け出ることができる。

 

僕が知るもっとも優しい人たちは、人らしい人たちは、そんなにどこの人も知っているわけではないが、身の回りの性的マイノリティの人たちだ。どんな活動を共にできるか。

 

基本的には哲学対話(哲学カフェ)をやって行けたらいいのではと思っている。「人とは何か」、「人を大切にするとは何か」、「一人であることは足りないことか」、「差別するとはどういうことか」そういうことを対話していく。テーマを性問題にしぼる必要はないだろうと思う。より普遍的な水準にテーマを設定すれば、個々の分野に縛られることはないだろう。むしろ分野に狭めてしまうことによって広がりがなくなってしまう。

 

とりあえず、テーマを決めて、哲学カフェの日程を決めて、進めていこうかと思う。