降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成番外 使う用語の説明

先の投稿でざっくりした考えを書いてみたが、なかなか今まで書いた細かいところを拾ってまとめるのが難しいなと思った。できるならそこを拾って全体を構成したい。

 

一つの要点は自意識をどう位置づけ、取り扱うか。僕の考えでは、自意識は言葉(リアリティをもたらすもの)と結びついて、体に戒厳令を敷くように強制的に主体になっている。だがもちろん完全にコントロールしているわけではなくて、体はそのコントロールを常に抜けて勝手なことしようとする。

 

もう一度簡単に各項目を言葉にしてみる。

 

生きること→生きものは主体的に生きているというより、死に切れなさ(バランスが崩れると苦しみが訪れるのでそれを取り戻そうとせざるを得ない)によって強制されて動いている。よってそこからの逸脱を求めていると考えている。

 

生きる力→苦しみ(設定されているバランスの崩れ)に対する強い反発の力。統合され、生産的な意図を持った力になる場合もあるが、部分的で破綻的な力にもなる。人の「自己実現」なども、言葉を持つことによる根源的な苦しみの発生に対する反発の力と考えている。

 

根源的な苦しみ→言葉を持つことによって、世界との一体性から分離し、分離前の状態から比べるなら、惨めで屈辱的で限界的な存在として自意識(自分)があらわれる。その言葉による規定は自覚できる範囲をこえて深く構造化されている。個人の生きることは、自覚されていないその深く構造化されている自己規定への反発、乗り越えに動機づけられている。このことは、ローザ・パークスの反逆的行動のように、全体に従い、ならうだけの存在であることを超えられるということも同時に意味している。これは個が個的にしか生きられないということの肯定的な意義でもあるだろう。


自意識→言葉によって構成され感じられるわたし。世界との一体性への強いノスタルジーをもち、それをステータス、モノ、恋愛など代替的なもので満たそうとする。言葉はリアリティを持っていて、体をその擬似的なリアリティで強制的に操作できる。だが支配と強制をやりすぎると反動がきて依存症や精神症状などが現れる。自意識による秩序は固定的で、時を止めるということによって支配がされている。治癒の場、回復の場、学びの場などでは、強迫の打ち消しによって時間の流れを戻し、体の自律的なプロセスを回復させ、秩序体制を更新することが意図されている。

人→「人と人」や「人として」などという場合は生物としての人間をささない。それは文化としての人をさす。人とは、あらゆる有用性(強迫)のリアリティを打ち消す場を発生させる存在をさすもの。常にそういう存在であることは無理で、あくまでもその場その場において、必要な有用性の強迫を打ち消すことができたかどうか、結果的にそこで何かの変化をおこしたかどうかが、人であったかどうかの判断基準になるだろう。なろうとしてなるものというよりは、そういう場の発生は出来事であり、事態である。ただ強迫の打ち消し自体はある程度意図してできるものでもある。