降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ざっくりな考え

いつも書いていることは、気になったことをテーマに置いて、そこから言葉を使って見えるものを押し拡げようとしている感じだ。細かく細かくなっていく。

 

細かくみたことがバラバラとあってそれらをひとまとまりにしようとすることがないので、今回は今まで考えてきたことがざっくりどうなのかということを書いてみようと思う。

 

自分のフラッシュバックがきつかったり、対人緊張が強かったり、正社員みたいなのに就職してやっていくようなことは考えにくかった。どう生きたらいいのか、今の閉塞状態からどう自分は移行していくことができるのかを「フィールドワーク」を通して考えてきた。

 

最初は変化を「成長」のように考えていた。だがやがてそこにあるべき姿のような恣意的な前提があることがわかった。また何かを価値あるものとすることによって、心は緊張してむしろ硬直するということがわかってきた。「成長」しようとか、「回復」しようとか思うことが逆にそこへの移行を遠ざけるようなところがある。何かがただ良いものであるとき、それは単に強迫であって、自分を硬直的にさせる。

 

それがわかったので、やってきたことの一つは世間で価値あるものとされているものを相対化して捉えることだった。「成長」「進化」「自立」「発展」「自己実現」とか、そういういい意味しかない言葉や考え方を相対化してきた。生きることにあるべき姿はないし、意味はないというのを吟味してきちんと確かめる。これはネガティブに受け取るということではなく、相対化なのだ。パッとしたきらびやかな概念は、人を高揚させるがその高揚は現状を麻痺させ、抑圧するためにある。

一貫した位置から世界を捉え直して相対化する。人は価値や有用性の評価にさらされている時、次の状態へ移行することができない。いつも自分を強迫している価値や有用性が打ち消されたとき変化がおこる。「人と人」というのは、意味や有用性が一時的ではあれ、打ち消されるやりとりを贈りあう関係性のことだ。その時、人には変化がおこる。

 

使う言葉、考える言葉の言い直し。強迫をもたらす変な言葉を吟味のうえ成り立たなくさせる。一つはそれをやってきた。

 

一方で、自分はなかなかよくある仕事につくようことは耐えられない。多くの環境への適応力はない。感じ方や価値観が違う。世間の人が面白いと思うこととかが、全然面白くなくてどうでもいい。発達障害的な冷たさもあって、人の不幸に冷淡で、人にあまり愛着を持たない。非人間的だし、機械のようだと感じる。これはなかなか生きていく際に不都合だ。この自分がどうやったら生きやすくなるのか。生きていけるのか。そのあり方を知りたい。その求めは強い。それも確かめてきたことだ。

 

自分の関心ある領域で企画とかやってみて、新しい人に出会い、刺激を受け、またそれを基盤として、世界との関わりを拡げていく。これは実践的にやってきたことだ。関連領域に出向いたり、自分が面白いと思った人を講師にした場を作ったり。これはずっとやっていることだ。自分に必要な経験があって、その経験を自分に与えることによって、次の状況と状態がやってくる。自分が生きられる環境とは何かを考えながら同時にそれが可能になるような環境を結果的に作ってきた。生きるということがどういうことなのか、自分自身を実験材料しながら確かめてきた。

 

既知のものと未知のものの境界に位置どり、未知のものとの関わりに踏み出していく。その境界への位置どりに必要なのが、その境界が何なのかを直感的に把握する感覚の培いと自分で環境を調整できる裁量だ。自由な時間、自分が自由に使える媒体、必要な人たちとの直接的な繋がりがあること。これらが自分の裁量で調整できないと人は自分自身を更新していくことが難しくなる。

 

言葉を吟味していくことと、自分の活動は循環的な関係にある。人間は既にある強迫を打ち消していくことで自分を更新できる。どうすれば強迫的なものを打ち消していけるのか。必要な更新に自力で近づき、プロセスをすすめられること。強迫的な言葉を相対化した思考を持つと同時に言葉上の理解だけでなく、実際の感覚を更新していく。世界の見え方、感じ方を変える更新を自分に与える。

 

今の自分の世界観や生命観。

生きる力とは、それぞれの生きもののなかで前提されているバランスが崩れることに反発する力だ。どんなに食料を得るのが困難でも、いったん得れば苦労以上の喜びを感じるように、生きものはバランスを崩されている。言葉をもった人間の場合、心の奥底に根源的な苦しみがあり、それに反発することには力が湧き、喜びや充実が生まれる。この根源的な苦しみに対する反発の力を使うことがこの世界でのサバイバルに有効だ。この根源的な苦しみは言語をもったことによる。そのことによって世界との一体性から追放され、自己の惨めな価値づけという矮小化が行われる。よって最終的には言語がもたらす現実からの脱却に向かう。自意識は言語によって構成されているが、言語獲得によって失った世界との一体性を求めている。だがそれは自意識によっては経験されない。何しろ自意識自体がその一体性から分離することによって自己認識しているからだ。

 

アニメ「君の名は」で主人公の二人は同じ世界にいれない。愛するものとは、失った自分、別の可能性を生きている自分である。それと一体化しようとするのが恋愛だが自分という自意識を世界から分離することによって自己認識ができるので、自己認識した瞬間世界と必ず分離している。自意識として世界との一体性を獲得することはできない。

 

だがここまで知れば、自意識が勝手にリアリティを作って誤解しているだけで、自意識が働かないところでは世界との一体性は回復されているということがわかる。であれば、別に既に回復しているのだから何をやったところで何も変わらず、別にやらねばならないことなど何もないのだ。根源的な求めは実質的には既に達成されている。

 

だが自意識の実感としては、全然そんなこと感じないし、古いものに支配されているから、そこから少しでも脱却したいし、それによって充実を感じるから、生きているならそっちへ向かうかというぐらいのものだ。何をやっても意味はない。既に達成されているから。また何も失っていない。ただ自意識が作り出すリアリティによって喪失が感じられる。

 

ということで何の意味も達成もないのだが、自意識が見る風景は古い認識に依存するので、更新がなければ同じ風景を見続けるメリーゴーランドみたいな生になり、倦む。それを更新することは世界をもう一度新鮮に感じることであり、喜びになるだろう。

自意識は言葉を使って体を乗っ取っている。時間を止める体制が自意識だ。だがそれに支配されている状態は辛いので、人間はそこから逸脱しようとする。自意識を一時的に停止するもの、一時的に打ち消すことによって、人間は楽になったり、何かのパフォーマンスを向上させたり、自分の認識の仕方を更新することができる。

 

社会については、強いものが支配している荒野だと思っている。サバイバルの世界ではより鈍感でえげつないことができるほうが勝つ。こう生きろ、人間とはこういうものだと社会は自分の支配に都合のいい物語を提示して迫ってくるだろう。

寿命が数ヶ月の人もいるし、何年、何十年も生きる人もいる。明日死ぬこと、しばらく生きるかもしれないことをふくめて、自分がなるべく納得いくように生きればいいだろう。

 

殻という考え方で人間を捉えている。殻は自分に取り込んだ自動的なシステムのようなものだ。殻は他者によって壊されない限り、同じパターンを繰り返すし、保守的で変化を及ぼそうとするものを抑圧する。

だからグローバリゼーションの席巻する世界では、人は力をもつが保守性という殻のほうが強くて、強いものがより強い力をもち、反省もせず行けるところまで行って周りを巻き込んで自滅するだろうと思う。だが局所的にそのような社会に対するアジール(「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」)のようなものを作ることはできるだろう。人類が滅亡するから悲観的になるとか、そういう「人類」みたいなファンタジックな物語を真に受けることはないと思う。生きることはそもそも自分でコントロールなどできないのに。

 

抑圧された人たち、殻にひびが入ったり、壊れてしまった人たちの回復する姿には、殻と一体化したものではない人間というものをみることができるだろうと思う。とりあえず自分もなかなか今の社会にあわない人間なので、そちら側で人間や変化のありようなど新しいものを発見しながらあれればいいのかと思う。

 

 

 


Cyndi Lauper - Who Let In The Rain