降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「成長」と「発展」の欺瞞

生きづらさや生きることの苦しさをもつ人にとっては、日常という世界の見え方や感じ方が更新されることは必要なことであるし、願いでもあると思う。

 

そのような人たちは自分の殻にひびが入った状態であって、痛みと苦しみの圧迫によって自分の状態が変わる方向へ近づこうとする。それは変わる力をもっているともいえるだろう。

 

だが、アマゾンみたいに殻をどんどん厚くして感じなくなった人たちのほうがサバイバルの世界では有利なようだ。その人たちは自分を変えるのではなく、環境や他人に圧力をかけて変えようとする。同じ信念、同じ感じ方、同じオペレーションシステムのまま、アプリをいっぱいいれて自分を強化していくようなことをする。彼らはその状態で困っていないので変わる力を持てない。

 

殻のせいではあっても、痛みを感じていない人、苦しみを感じていない人が、自らの殻にひびをいれることができるだろうか。自分から傷つくようなところに近づいていくことができるだろうか。

 

殻が壊された人は質的に変わる力をもっているだろう。変わる力とは耐え難い痛みであり、苦しみであると思う。そんなものを自ら招きいれられる人はいない。もし誰かがそれを自ら招きいれているように見えるなら、傍目にはわからなくても、その人には相応の生きている苦しみがあるのだと思う。

 

僕は生きものというのは、出会う危機をやり過ごして生きているものだと思う。殻とは生きていくなかで学んで取り入れて一体化している体制だ。生きものはやり過ごすに十分な殻を手に入れれば通常はそれで済ませるものだと思う。

 

「成長」や「発展」の欺瞞は、馬の前に人参を釣るみたいにしておこす高揚をもって、人を騙し、もともとの生きているありようを否定するところだと思う。もともとは、やり過ごすのに十分な殻を身につければそれで変わらずに済んだのに、「成長」や「発展」が人間の価値だとされたために、その度に殻を壊して生きなければいけないという無理を背負わされた。

 

「成長」や「発展」を煽る人は誰だろうか。人々にきらびやかさをみせ、人がそう動くことによって自分の懐が豊かになる人たちではないだろうか? 美しい鶴の織物は自分の毛をむしって作られている。光としてどこかから一点に集められたものは、それが届かない場所の闇をより深くしている。