降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究 自分の反応について

ある認識を持っていることによる感情の自動的な反応。

先に年配男性への反応について書いた。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

→人の話しを聞くときに分析して意見するが、分析が妥当でなくそこから出る意見も微妙。

 →それに対し強い腹立ち・不信

  →年配男性ということである種の権威性を感じている

  →権威があるのに間違ったことをいうところに強い反発

 →自分の意見に疑いを持たない無自覚さ・暗愚さに怒り



その後、その人なりに誠実に考えようとしていて人や僕にも聞いたりもする姿をみて反発は弱まってくる。

 

つまり初期の自分の捉え方としては、

 

→年配なので権威がある。

→いい加減。

→自分の理屈の閉塞性や抑圧性に気づかない上にそれに酔っている。暗愚さ。

→人の扱いが軽い

 

というところがあっただろう。それが

 

→年配なので権威がある。

→いい加減 

 →自分なりに誠実に考えようとしている

→自分の理屈の閉塞性や抑圧性に気づかない上にそれに酔っている。暗愚さ。

 →バイアスはあるが、酔ってはいない。

→人の扱いが軽い

 →捉えが違うかもしれないが、その人と向き合おうとしている

 

となった。強い腹立ちや反発は、「自分への酔い」と彼の意見から想像された「人の扱いの軽さ」から来ていた。これは全く自分が勝手に投げかけたイメージだ。あとこの人の弱さや不器用さと感じられることをなんとなくその後関わりのなかでみれたことも感じ方が変わった要因としてあるだろう。

 

あと「暗愚さ」に対する怒りがどうおこっているのかもうちょっとみてみた。自分が反応する暗愚さの内容は、盲目性、無自覚さや客観性のなさ、自己陶酔、応答性のなさというような要素がある。

そして「暗愚な人が世界を歪めていってそれが自分にまで影響してくる」と捉えているなと思った。誰かの暗愚さは世界を歪める汚染のようなものであり、世界が歪めば歪むほど自分は生き難くなる。

かつて教員たちや叔母、親は言葉で言っても通じず、自分は向こうの都合よく不正に扱われ規定されたせいで、屈辱的な思いをしたという被害意識がある。自分は力を持つ人の暗愚さの被害者であるという恨み。

 

と同時に、自分は決してそのようになってはならないと強く自分に課している。アイデンティティみたいになっている。これによって、自分自身の盲目性や無自覚さ、客観性のなさ、自己陶酔、不明さへの強い否定があり、それらが決して出ないように、そして人にバレないようにあらかじめ自分を強く抑えようとする。だが抑えるがゆえに気軽に行動ができなくなったり、機を逃して言えなくなったりして鬱積がたまり、あまり吟味なくいう人とか、適当なことをいう人に余計腹がたつということがおこる。

 

フラッシュバックがきつくなった中学校以降、同時に強烈な自己否定があった。自分は自分が人からされたような間違いを人にしてはいけない、そして少なくとも自分の行動上だけでも気持ち悪く醜い暗愚であってはいけない、そういう自分としてアイデンティティをつくろうとしてきてしまった。そこに誇りを持とうとしていたが、その誇りは同時に恨みを前提にしたものでもあった。

だが自分がどう意図しようと見えないものは見えないし、愚かさはコントロールできるものではない。実際上は極端に自分自身の行動を制限しながら、その自分に制限を課す苦しさは自分が我慢しているのに「我慢していない」人の行動への怒りや苛立ちになる。その上、愚かさを隠すと余計に愚かになる。

 

諦めて、愚かさを含めた等身大の自分に戻る。そのために我慢せず、求めがあれば人に言うことからやっていくしかない。そして人に自分の求めや考えを明言することによって、トラブルなど見えないところへ踏み込むのを恐れ、いつも退却することをやめていく。今はそういう当たり前のことをやって、くぐもった自分の気の通路を通していく。