降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

イリイチ「管理された健康に抗して」 もう一つの世界

イリイチの『生きる思想』の「管理された健康に抗して」の章に以下の文章があるようだ。

 

生きる思想―反=教育/技術/生命

生きる思想―反=教育/技術/生命

 

 



〈社会制度が進歩したかしないかということは、まず第一につぎのような点においてはかられます。つまり、そうした社会制度の進歩によって、個人や第一次集団(としての家族)が自力でおこなう活動によってみずからの欲求(ニーズ)をみたす能力を増大させたかどうか、ということです。わたしが「自力でおこなう活動」と呼ぶのは、そうした活動によって、人びとが、みずからの欲求(ニーズ)を定義するような活動、つまり、そうした欲求(ニーズ)をみたす価値をつくりだす過程そのものであるような活動のことです。〉



僕はこれが自給やDIYの意義であると思っているし、回復する、学ぶということはこういうことであると思っている。

 

世界との関係、他人との関係が更新されるということは、つまりそれらがなんであるかを規定している内的な認識や反応が更新されるという事態であると考えている。

 

その更新はブーバー的な「出会い」ということもできるだろうと思う。既知のもの(=利用対象になってしまったもの)になってしまった世界や他人との関係性が一新される事態が「出会い」であり、この「出会い」を繰り返すことによって人が人たる状態をもつことができる。人とは内的更新をおこさない静的な存在であるときは、人たりえておらず「出会い」を繰り返す動的な過程をもつ存在であるとき、人たりうる。

 

人たりえないとは、保守性と自我肥大の機械になるのを避けられないということだ。人は環境によって疎外された存在になる。自分をダメにし、他者を抑圧する存在になる。人は個人では自立できない。必要な環境がともにあってはじめて人は疎外を遠ざけることができる。

 

時々例に出すが、豆乳ヨーグルトを前に作っていたのだけれど、豆乳が豆乳ヨーグルトになる過程の時は菌は活性化しており腐らない。だが完成してしまうと他のカビの菌のほうが強くなる。人が人たりうる状態が保たれるには、出来上がってしまったらまた過程の状態にもどすことを自分で気づいて自分で繰り返せることが必要だ。そうしないと腐る。柔軟性を失ってよりガチガチになり、自分と他人をダメにしていくようになる。また内面的に抱え込んでしまった困難から回復していくこともより難しくなる。

 

人が人足りうるのは、豆乳ヨーグルトが完成に向かう途中の状態であるときだと考えている。途中の状態をずっととどめることはできない。出来上がったら、その秩序を更新し、一旦ゼロにもどすような新しいものとの出会いがその度に必要なのだ。人が疎外を遠ざけ、人たりうることを「人としての自立」と呼ぶなら、「人としての自立」は「出会い」との関係の持ち方に依存する。出来上がってしまったらまた「出会い」をおこし、それを繰り返すことは、常に回復し続けることであり、学び続けていることともいえるだろう。またそれは「最低限の文化的生活」でもあるだろう。「出会い」とどう関わり続けられるかが人が人たりうることから欠かせない。

 

「出会い」を繰り返すことを可能とする動的な環境を自分の周りに引き寄せ、構成し、保つ必要がある。そしてその環境を引き寄せるための自分自身の感覚の育成が必要だ。この感覚は、広い意味での自給やDIYによって育成される。世界において、自分が直接既知のことと新しいものとの境界に立ち、新しいものへと自分なりのあり方で踏み出すことが必要だからだ。そうでないなら、人は既知のもの、既にあるコンセプトのなかで倦み、無感覚になるために既知の刺激の増大を求め、自分を更新するための世界との関わり方を失ってしまう。

 

自給やDIYの意義は、自分にとって既知のもの(自分の閉じた認識の世界)と未知のもの(閉じた認識の世界(=疎外の牢獄)の秩序を壊し更新するもの)の境界に立てること、接点を持ち続けられることであると思う。他人が設定した環境、お膳立てされた環境では人はその踏み出し、出会うための境界を持ち得ないのだ。あるいは維持し続けることができない。そのような環境に入れられた人は強い人の言いなりになりやすく、傲慢にもなっていく。

 

これもよく出している例だけれど、詩を裏紙に書く友人がいた。ノートに書こうとすると緊張するのか詩が出てこないらしい。私は大したことなんか書いてないよ、というような気持ちである状態を導くことができるとき、詩が書ける。このように微妙な自己調整ができないと人は自分に必要な体験を提供することができない。環境は既に完成されたものではなく、自己調整される余地が常にあるほうがいい。できれば抜本的な次元から自己調整できる余地があるほうがいい。そのことによって、人は自分が更新していくための環境を自律的に調整するのだ。

 

必要な環境を引き寄せ、構成し、整え続けるためにも「出会い」に対する感覚をリハビリし続けることが必要だ。それが自給的に生きることであり、DIYとして生きることであるだろう。それは単に食料とかエネルギーとか、個別の自給をすればそれでいいとか、ただ家とか家具を自分で作ったらいいとかという限定的なことではない。自分に対して「出会い」を提供すること、出来上がれば更新するということを自分に与え続けることが自給的に生きることであり、DIY的に生きることなのだ。

 

さて、冒頭に引用したイリイチの考えはどのように遂行できるだろうか?

 

モノ的には、表面的に何もかも用意され尽くされたような日本のような環境ではどのように自給的な環境を自分に引き戻せるのか。継続的に既知のものと未知のものの境界に自分をポジショニングさせることができるのか。

 

僕はそれは「防災」ではないかと思っている。人口減少による公共サービスの破綻が予期され、そして今後確実におこるといわれている地震がある。そのような状態がおきても、「復興」するまでの5年や10年ぐらいは「最低限の文化的生活」を自分たちに提供できる「もう一つの環境」を現実に作っていくならどうだろう。

 

子ども食堂なども「防災」として位置づけられる。「もう一つの環境」をつくることは行政や大企業によるサービスが破綻した状態に対する現実的な準備であり、同時にこの世界に「もう一つの世界」を自分たちでつくり上げることだ。そこは人が「出会い」、自らを更新していくことを取り戻していける空間になるだろう。