降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「聴く」と「邪魔しない」

当事者研究の場をつくったのは、内面を含めた話しの場が身近にないなと思ったのと、人の話しを聞くということをとても多くの人がしないのでうんざりするから自分の周りにお互い話せてきける環境をもちたいなと思ったから。

 

一方で、きくということがあまりにハードルの高い特殊なことと思われても困る。自分が「聴けてる」のかと言われてもそんな深い「聴き」などできない。相手にもそういう大仰なことを意識してもらいたいわけじゃない。

 

人の話しを邪魔しないというほうがまだ聴くというよりいいように思えてきた。相手のなかに自分の知らない何かのプロセスがおこっていて、感じられることを確認しようとしている。その作業を邪魔しない。そのプロセスは自律的なところがあって進み出せば自分で話す。

 

相手に何か自分の知らないプロセスがおこっているのに、そこで自分の思いついたことを直ちにかぶし始めずにはいられないとか、相手の言った本意を確認しようともせず何か勝手に判断して自分の話しをしだすとか、そういうことをせずに、とりあえず相手の一段落を受け取る。その人はその人にとって必要な何かをしているので、それをまずは尊重する。

 

別に訓練された人たちでなくても、お互いに大切にしあう関係性がある場だったら普通にそうなっているから訓練された深い「聴き」がいるのではなく、邪魔しないで尊重するということなのだと思う。専門家による一方的な傾聴は限定的な場面のもので、いつでもそうやったらいいというものではなくて、そうされてかえって話しにくいこともある。お互いに話ししてきく関係性の充実が大事だと思う。

 

上をみればどこまでも上はあるのだろうけれども、その場合でもつまるところは話しを邪魔しないということなのだから、話しを邪魔しないという普通のこととして位置づけ、その上で感覚を分化させていくリハビリの場があればいいのではと思う。大仰なもの、特別なもの、自分の聴く能力を発揮するものとしてじゃなくて、「普通にきく」を大事にして。