降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「性」と「対話」

8月3日4日に宝塚大学梅田キャンパスで行われる「開かれゆく対話の文化祭」。『リフレクティング』の著者矢原隆行さんも来られるとのこと。

 

オープン・スペース・テクノロジー、リフレクティング、修復的司法、ワールドワークなど色々な対話のかたちがあると思う。それらは日常で用いることができるだろうか。一般の人はどこかのワークショップや研修に行ってその場で体験できるだけだろうか。

 

リフレクティングなどは、比較的一般の人同士でも導入しやすいものだと思う。だけれど、人の話しをきくということは一般にそんなに大事にされていない。

 

すぐ自分の「常識」やアドバイスを押し付ける。話している相手をおいて自分が思いついたことを衝動的に言いだすのをやめられない。相手のとらえ方の「誤り」をその場で訂正せずにはいられない。相手が喋ったどこかの単語を誤解して反応し確認しないまま怒って批判しはじめる。

 

そういうことをすると、話している人は自分の気持ちに気づきにくくなるし、その人のなかでおこっているプロセスが中断する。

 

聞いていると半永久的に話し続ける人もなかにはいる。が、まずは十分に聞いて次に自分の話しをすれば良さそうなのに、パン食い競争でもするかのように発言のイニシアチブや正しさのイニシアチブを奪いあう。

 

人の話しをきくということと自分の内面や気持ちを話すということはセットになった方がいいのかもしれない。そうすれば相手にそうされることの嫌さや意味のなさがわかったりするのではないか。

 

自分が当事者研究の場をもったのは、一方的な傾聴ではなく、お互い対話するものとして、話しを聞く、話しをするということを体感していく場をつくりたいというのも大きな動機だった。1年やってきてその求めは満たされていると思う。

 

次にどういう場を作ればいいのかと考える。対話を学ぶ場ということで対話の手法を学ぶ場をつくればいいのかとも思うけれど、それをやろうとする人は限られていると思う。日常の他のこともあるのに「対話を学びたい」という強い動機がある人は少ないのではないか。

 

性教育や性暴力、性差別のことをやっている人たちと協働して学びの場をつくれないかと考えている。ここは人を大事にするということがどういうことなのか、価値観のまるで違う人に対しての繊細な判断や感覚を培えるところであり、しかもこのことは多くの人に通じるところだ。ここで対話の手法を実践的に使い、学ぶ場ができないだろうか。

 

昔、英語の先生が、教養を身につけるために英語を勉強しようとしても身につかないけれど、英語を何に使うか、どう使って何かを得るかという考えなら身につくと言っていたのを思い出す。習得自体を目的化するとかえって学べない。具体的な何かを得るときの手段として、道具として身につけよということかと思う。

 

対話もまた、何に使うかという具体的な用途を設定したときに最もその本領や可能性が生きるものではないか。「性」と「対話」は可能性あるマッチングなのではないかと思う。