降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

黄黒交互色彩法

まだブログを始めてない時期にFBに書いた記事。日付は2013年の12月14日。

黄黒交互色彩法についてブログに書いていたと思っていたが、FBだけだったみたいなので、転載。

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大学の卒論か何かの時に、心理療法の論文を見ていると、「世界に奪われた主体を取り戻す」という言葉があって、なぜそういう言い方をするのか全然わからなかったけれど印象に残った。

 

その論文は、執筆者が自身で考案した描画法についての論文だった。
描画法は、治療者が黒、クライアントが黄色のクレヨンか色鉛筆をもって、画用紙に交代で画用紙のスペースを分割するように1本の線をひいていって、図を完成させるというもの。

 

心理療法のクライアントは、極度にエネルギーを失っていて、人との関わりで軋轢ともいえないぐらいのやりとりもしんどくてできない場合もあり、治療者が画用紙に一本の線をひくのだが、その線を切るような線、交差するような線をそんな場合クライアントは書くことが難しいとのこと。

 

クライアント側は受け身に線をひいていくのだが、二人が交互に線をひいていき、画用紙が二人の描いた線によって、亀の背の模様みたいになっていって、適当に分割された頃合いを見計らって線をひくのは終了。その後に線によって分割されたススペースに色を塗っていく。

 

クライアントの線の色は黄色なので、治療者の黒い線と比べて薄くインパクトが弱い。ところが、お互いに色を塗っていって、最後に治療者がクライアントの黄色を黒で濃く縁取りすると、クライアントが描いた部分が黄色と黒の効果で鮮やかに浮かび上がってくる。

 

弱々しく受け身で描かれた絵だったはずが、あれ?こんなん自分描いたっけ?と思うぐらい、治療者とクライアントの主客が逆転して、治療者の関わった黒の主張は背景に消えて、クライアントが描いたものが主役として浮かび上がってくる。

 

このときの力が満ちるような感じ、世界に対して自分が働きかけたことが鮮やかな結果を持って自分に確認される感じ。

 

(これ以後論文と全然照らし合わせてないけど、僕が受け取るにおそらく)
自信、エネルギーの源は、自分が世界に働きかけた結果、働きかけたエネルギー以上のものが帰ってくるものだ、という確かさなのだと思う。その時、人は従うもの、無力なもの、疲弊していくものから抜け出して、狩りをするもの=奪うもの=主体になるのだと思う。エネルギーを運用して充実させ、増やしていく主体になる。生きものはすべからく狩人なのだ。

 

セラピストにかかるかどうかに関わらず、日々のなかで疲弊していったり、エネルギーを失っていくなら、謙虚に、手探りで、何が自分のエネルギーを確実に増加させていくのかを確認していくことが必要になるだろう。

 

それは既知のことや価値観で判断したり結論づけるアタマの働きかけをとりあえずやりすごし、暗闇で目をつむってそこにあるもののかたちを手探りで確かめていく作業だ。

 

台所で特定秘密法や自民党のことで話しをする。

 

多くの人が政治に関心をもち、賢く理性的に、自分だけでなく、マイノリィや弱いものにも公平さがいきわたるように、正しい人を探し、投票すればそれでそれぞれが世界に対して働きかけることは終わりだろうか。世界は生きやすくなっていくだろうか。

 

国や社会は、個別の人やものより自分たちが定義して決めた「全体」の運営や経営を自分たちのために行うもの。でもただ一つ束縛されるルールがあり、「みんなのため」という劇を演じるなかで自分の望みを遂行しなければならない。

 

それを演じきれなかったり、観客にその劇になってないと思われたところで力を失ってしまう。劇は続けなければならない。

 

その劇は劇としてあるものとさしあたり認めつつ、しかしそれにまるっきりその物語に取り込まれてしまうのではなく、並存して自分たちが自分たちの住む環境、望む人間関係を自力で作る方向性に、個々の存在の生の充実、回復の可能性があると思う。

 

自分の子どもを有志で育てる「自主保育」をされている知り合いの方がいる。
どのようなスローペースで遠回りであっても、「正義は勝つ」みたいなあからさまな勝利がなくても、それはでも万人に等しく応用可能な仕組みでないから意味がないよねと誰かに却下されてしまっても、未完であっても、過程であっても、自分が望む環境を直接自分たちが主体となりそれぞれにつくりあげていくなかにいる。

 

主体は「だから」のほうには存在せず、「にもかかわらず」のほうに存在する。
国や政治、時代、環境が悪い「から」自分も〜だ。というところには、どこにも主体がない。

 

またどのように恵まれた環境にあろうとも、生きることの根源的な苦しみから逃れられる人はいない。恵まれている「にもかかわらず」苦しい。何かに目をつむることなく「だから〜だ」で割り切れる生がどこかにあるだろうか。良かれあしかれ、選択をするしないにかかわらず、リアルにあるのはいつも「にもかかわらず」のほうだ。

 

自分の働きかけに対して、世界が応える。その実感、エネルギーの循環を地味に自分の感じられるところを取り戻すことには、国や社会や時代は関係ない。

 

国や政治の劇と並存させ、もう一つの世界をつくり、二つの世界で生きる。
後者のほうは、自分や自分たちで充実できる可能性をもつ。そしてそれは、前者の世界のほうに通じる自力の基盤を育てることにもつながっていると思う