降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成10 四国遍路を終えて 変化と自意識

今日は続けて書くことにする。

外は雨が降っている。寒くなった。

 

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四国遍路の前に内観療法に行っていた。内観療法は吉本伊信という実業家であり僧侶であった人が、浄土宗の身調べという修行を一般の人にもそのエッセンスを体験できるように作り直したもの。一週間ぐらいずっと部屋にこもり、子どもの時から現在まで、自分と親や重要な他者との関係を想起していくもの。この内観療法も自分の感じ方に割と変化をもたらした実感があった。

 

日数が大事だと思うようになった。タイミングにもよるかもしれないが、1日や2日のワークショップではそれほどの変化がおきない。四国遍路は一周にちょうど40日かかった。普段の状態から旅の心の状態になるのに、3、4日はかかる。そこからがプロセスの開始であるように思える。旅のなかでは感覚が変わり、要求水準も変わる。家に帰って来た時、夜8時に着いても何も言われないし、雨を防ぐ屋根があり、風を防ぐ壁がある。それだけで感銘を受けるほど感覚は変わっている。それはすぐに慣れて何も思わなくなるけれども。

 

四国遍路にはまだ吸収できる何かがある。そう思って人類学の大学院に行って、四国遍路にさらに関わることにした。人類学科の人たちがいい意味で心理の学生っぽくなくて普通なのが気持ちよかった。だが心理学と人類学の境界領域に関心があるような僕にとっては、それぞれの分野で自分の領域を限定しているのが不自由でつまらなく感じた。例えば人には自律的な自己治癒力があるというのが臨床心理では普通でも、人類学科でそれをいうと、それは心理学の前提であって、こっちでは違うからと言われた。僕も自己治癒力という言葉こそ使わないが、ざっくり言ってそのような力動があるのは前提にして、そこから話しをしたいのだがそれができない。

 

自分のしたい話しが通じる人が周りにいない。自分が変わっていくたびに、話したい内容も変わるので、話しができる人がその後だんだんと増えてきたとはいえ、今でも常に需要に対しては不足状態にある。いつもそこを開拓しようとしている。松本大洋に「zero」という作品がある。主人公の五島雅は強すぎて全力で人と闘うことができない。彼は自分の狂気を解放したいのがそれに見合う相手がいないままボクサーとしては高齢の30歳になってしまう。だがやがてようやく自分と同じような狂気を持った若きボクサー、トラヴィスと出会う。自分は卑小な人間で雅などではないのだが、雅の飢えに共感する。まだ足りない。いつも足りない。僕もそんな飢えを持っている。足りたらどうなるのか知らないが、雅がトラヴィスに「もっと高くへ行こう」「もっと高く」というシーンがあるのだが、そういう感じのことがおこる気がする。極度に集中した状況に入り、自分の何かが変容していく感じがする。

求めを一気に満たすようなものはない。少しでもより飢えを満たすようなものを探し、近づいていく。自分はそこまで劇的には変わらない。しかし少しでも必要なものを得たら自分は次の状態に移行していくので、それをただ繰り返すだけだと思って今まできている。はっきり言って今後生きていけるような体制を何も整えていないのだが、ただ落ち穂拾いをして、拾った分だけの変化をしていく。そういうスタンスだ。

生きるということはどういうことなのか。生きものとはどういうものか。人間とはどういうものか。文化とはどういうものか。変化や回復するということはどういうことなのか。それをよりはっきりと確かめていく。

 

四国遍路に関わり、知ったことは、人は適切な環境と媒体があれば治療者がなくても自律的に変容をおこしていくということ。いかに自分に必要な環境と媒体を提供するかということが重要だ。

そして自意識の問題。無意識というものは、全く感じられないから無意識なのであって、感じるものは無意識ではない。よって自意識で無意識をコントロールしようとすることには意味がない。無意識に対して自意識は、いつでも手のひらで遊ばれているような存在だ。アプローチできるのは自意識だけ。自意識とは何かを知り、そこにアプローチしていくことが自意識としての自分にできることだ。

 

自意識とは何かを探っていくと、自意識は主体であるように見えて、実のところ変化や移行の邪魔をしている一番の要因だというように見えてきた。変化していくとは、自意識に過ぎない自分がその自意識の支配を抜け出していくようなことなのだ。

 

自意識を強く働かせる時、緊張がおこり、変容のプロセスはストップする。

 

演技が上手くなるためのワークショップというのがあったとしよう。演技が上手くなるということには価値があると思っている人が参加するだろう。だが上手くなることに強く価値をおく人は今、自分が下手であることを前提している。下手であることという否定があり、上手くなれないかもしれないことへの不安と緊張がある。強く価値をおけばおくほど、緊張は高まり、プロセスはストップし、目指す状態にはなれない。

オリンピック選手のように意志してパフォーマンスを高められる人たちもいる。だがその時は、実際には自意識にあまり影響させないようにする技術を身につけているのだ。自意識でやろうとするのではなく、結果的に自意識の悪影響を打ち消し、キャンセルする能力を身につけていくとパフォーマンスがあがる。自意識の機能は動かすことより止めることに働く。

 

それは治癒や回復を求める人がそれを価値としているがために停滞し、変われないこととも同じだ。むしろそんなものがどうでもよくなる状態になれた時、矛盾するようだが変容はおこる。自意識による直接操作から、環境調整による自意識の悪影響の打ち消しへの移行が変容をおこす。だからあまり何か高すぎる価値を持つことは、移行の状態を停滞させる。

 

僕は生きることに意味がないという。意味とは有用性であり、価値である。そしてこの価値が停滞を招く。意味がなくなる場、有用性に支配されている意識が薄れる場でこそスムーズな変容がおこる。安全、安心、信頼、尊厳とはどのように提供されるものか。それらは実のところ、有用性によって自分が評価されていることを打ち消すことによって生まれている。有用性や価値に支配され、動けなくなっているプロセスを動かすためには、意味という有用性を打ち消す必要がある。

人と人として付き合うとか、人と人というのは、優しさとか暖かさとかを持っていることを指しているのではなく、あらゆる有用性を人と人の間に持ち込まず、跳ね除けること、有用性という価値が入り込んでないと感じさせることであり、その時、愛とはどんなものも等しく意味がないことを人に感じさせるものだ。等しく意味がないとは等しく意味があるということとも同じなのだが。

この有用性に支配された状態の打ち消しができないと、人は変化のプロセスに入ることができない。変わることができない。同じパターンのまま同じことを繰り返す。それはある種の地獄だと言えるだろう。変わっていくためには、一時的にではあれ、人を評価するあらゆる有用性は打ち消されなければならない。

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