降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ネガティブなほうに基準をとる方が実際的に妥当な距離になることがあるなと思う。「薬」なり「栄養」を毒の一形態だと考える。「薬」や「栄養」にはいい意味しかない。しかしそんなものはない。そういう言葉自体が実際と乖離していて誤った行動を導く。毒と思えばバランスが取れる。

 

人が人を疎外することを聞いたり見たり、やったりやられたりすると、葛藤をひきおこされる。人が人を良くするということを前提にしているからだ。だが関係というのは、損ねることを本質とすると考えるならどうだろう。社会でおきていることはどれも本質通りだ。

 

支援したり、助けたりすることも、そこで両者が納得したとしても、それをもって「良い」と人間が決めることができるだろうか?「良い」と思ったことも、それがその代償に何かを損ねずに成り立っていることがあるだろうか? 損ねることの違いはあっても、否応無く何かを損ねていく。

 

どのような損ねであれ、その損ねは罪だ。ある損ねを別の損ねに換えることができても損ねであることは変わらない。その損ねを否定するとき、大きな欺瞞が生まれ、闇が生まれる。避けられない罪を重ねることをもって生きると考えるとき、逆に自暴自棄ではない、救いと自由が生まれないだろうか。

 

いずれにせよ、その場で考えられるだけのことはやるのは変わりない。「良い」は存在しないのに、それが人を縛り、苦しめ、歪ませる。

 

速度制限を守っていた優秀なベビーシッターが子どもをはねて、子どもは死んだ。誰もが罪を犯し続けているのに、彼女だけ人より過分に苦しむ必要があるだろうか。

www.bbc.com

 

彼女と他の人は何も変わらない。万人が見えない罪を犯していてもその責任を引き受けることはない。万人が蓄積したものは見える罪を犯した人に負わせられている。

どのような選択も罪だ。そしてその罪を自覚しないことは、世界を一層歪ませるより深い罪だ。松岡宮さんの詩「謝れ職業人」はその欺瞞を暴いている。

d.hatena.ne.jp