降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

4/7 土曜当事者研究

当事者研究土曜日。

 

振り返りの後、「仕事とは」と「対等とは」をテーマにした。「仕事」は木曜日にもやったけれど、このテーマも繰り返しやっていいテーマだと思う。

 

自分にひきつけてどういう理解だったら腑に落ちるか。仕事とは、自分が自分として生きていくことだと思う。でも矛盾するようだけれど、自分が自分として生きていくというとき、それまでの自分のあり方が破綻していくことが必要だ。

 

その時自分とは方向性みたいなものだろう。「統合」というような言葉もあるけれど、僕は世界との関係性の回復や分化とかいったほうがしっくりくる。殻になっている古い自分のあり方が破綻し、より世界との関係性が回復し、分化していくとき、自分が自分としてあるというふうに思える。その更新がおこり続けるとき、更新のプロセスにあるとき、生きている。

 

このプロセスは意思によるコントロールであるよりは、自律的なものであり、意思はこの自律性を邪魔するものをなるだけ取り除き、打ち消すというところに役割があると思う。

 

次に「対等」とはと考える。それぞれの人は年齢なり職業なり身体なり性質なり何から何まで違っている。子どもと話すときに上から話しかけず、目の高さを合わすとしても、なお大人と子どもでは体力やら知識やらで差がある。何でも一致させるのは無理そうだ。

 

となると、本当の対等というものがあるのかどうかとか考えるよりは、心が恐怖や気がかりによって固まったり鈍麻することをなるべく最小限にし、恐怖や気がかりを生むような要素を打ち消し、お互いの心が可能な限り自由でのびのびとして、繊細なことを感じ取れて応答できる状態にしようとするということで捉えたほうがいいのかなと思う。

 

「対等」を尊ぶ意図は、可能な限りお互いの心の状態が良い状態になるためにやりとりがおこなわれる環境の設定を整えるということなのだろうと思う。