降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成7 四国遍路1

カウンセリングではない人の変化や回復とはどのようなものか。そしてその変化や回復はどのような環境において促されるのか。15年以上前のことだけれど、四国遍路はいまだに何かを考える際に参照する基盤となっている。

 

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四国遍路は初めての本格的なひとり旅だった。ペースもわからず膝を少し壊しながら歩いていた。白い羽織りを着て歩いていると1日目から人が物や金銭をくれたり、車で送ってあげようと提案してくれる。車は乗らないつもりだったので、大雨でどうもこうも大変だった時以外は礼を言って断った。2日目に親切で泊めてもらったお家で全財産が入った財布を汲み取り式トイレに落として家の人に拾ってもらった。それまで何とも思っていなかった夜の山の耐え難い不気味さや寒さを知った。電灯のない真っ暗な山の側道を歩いていた時は、目の前の闇が口を開けて待っている怪物のように見えた。1m先ぐらいまではかろうじてぼうっと浮かび上がる白線を頼りに歩く時間はとても長く感じた。遠くから車の行き来する音が聞こえた時は心底ほっとした。騒音でしかなかった車の音などに肯定的な感情を抱くことがあるとは思ってもみなかった。

 

台車をひき、ずっと四国を巡っている人に出会った。四国では一箇所にホームレスとして滞在するよりもずっと遍路者として歩き続けることを選択する人もいて、そういう人たちは職業遍路と呼ばれていた。そういう人たちから野宿するのにいい寝場所を紹介してもらったり、カップラーメンやみかんを振舞われたりしてお世話になった。遍路者は通りすぎる人に拝まれたりする聖なる巡礼者であると同時に対極の乞食として扱われることもある。遍路者はホームレスの人たちと水平的な関係になるので向こうから声をかけてくれていいアドバイスをくれたり、何かを振舞ってくれたりすることが何度かあった。台車をひいていた人は、四国のどこかに知り合いの子どもがいて、その子にまた会うのを楽しみにしているようだった。

 

遍路マップにも記されている場合もあるが、野宿で泊まれるところがあった時は嬉しい。天井があって雨がしのげること、壁があって風がしのげること、野宿するとそのことの有り難さがよくわかった。食べること、トイレ、そして寝られるところについては常に気になってるいるが、それらが見つかり、用が足せた瞬間、これでまたもう何にも縛られず自由だという解放感が湧き上がる。僕は野宿はしたものの遍路マップは持っていたし、自炊キットを持たず外食して、托鉢もしないスタイルで行った。宿に泊らなければ一日千円ぐらいで十分足りる。

 

香川では歩き遍路に無料で讃岐うどんを接待してくれる旨が貼り出されていた店に入った。店の女性が東アジアに残る日本兵の遺骨を供養しに行っている僧に感銘を受けているという話しをしてくれた。うどんを接待してくれる彼女の気持ちはどういうものだろう。そして話してくれたその僧の行為に感銘を受ける心というのはどういうものだろう。そう思うとせまってくるものがあった。

 

歩いて一週間ぐらいたつと心理状態が変わっている。ものをもらったり、声をかけてもらうことが心に強く響く。ボロボロのバス停でも、雨風がしのげるだけでありがたい。要求水準がどんどん下がっているので、ちょっとしたことが当たり前でなく、心に響く。声をかけてもらうと、本当に足の痛みがしばらくしなくなり、歩くスピードも上がるのがわかった。疲れた体だと温泉と普通の銭湯の違いもはっきりわかって、温泉だと染み込んでくる感じがあった。旅の途中でであう温泉に入る時、京都の友人たちは僕の旅が大変かと思っているかもしれないけれど、ここまで幸福感を感じているとは思わないだろうなと思った。

 

同い歳の遍路にあってしばらく旅を一緒にした。初めて自分からお願いして無料の宿に泊めてもらった時に一緒になった人は7年前にこの宿の主人に出会い、死ぬために歩いていたのを思いとどまったそうだ。その人とたまたま一緒の日になった不思議。愛媛の実家から歩きはじめて香川と徳島を過ぎ、高知にいたっていたが、善根宿と呼ばれる民間の無料宿に泊めてもらうつもりはなかった。泊らないつもりでいた。だがここまできて足が痛くて2日泊めてもらうことをお願いした。夜、たまたま打ち上げ花火があがっていて、窓から花火が見えた。自分のプライドから降りて楽になった気がして、旅がここから始まったような気がした。そしてそれを花火が祝ってくれてるような気になった。

 

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