降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

エリ・ヴィーゼル『夜』

奥田知志さんの本で紹介されていたエリ・ヴィーゼルの『夜』を読んだ。

 

 

夜 [新版]

夜 [新版]

 

 

父と一緒にアウシュビッツに送られたヴィーゼルは、父を愛しながらもたびたび父を見捨てたい思いに駆られ、また父が死んだ際には自由になったとも感じた。ヴィーゼルはその罪の意識をその後も抱え続けている。

 

正直なところ、あまり入っていけなかった。多くを読み飛ばしてしまう。時々、印象的なシーンがあった。強烈なものでは、子どもが穴で燃やされる場面、子どもが絞首刑にされるシーン、ヒトラーだけがユダヤ人を絶滅に向けて殺していくという「約束」を守っているというユダヤ人、アウシュビッツから出た後に再会したフランス人の女性とのやりとり、輸送中の列車にパン切れを投げ込み、殺し合いがおこるのを楽しむドイツ人労働者。


雪の降るなかで眠ってしまった父をおこした時のシーン。

父も静かにまどろんでいた。父の目は隠れて見えなかった。帽子で顔を覆っていたからである。

「目を覚ましてよ」と、私はその耳元に囁いた。

父はぎくっとした。彼は座りなおし、途方にくれ、茫然としてあたりを見まわした。孤児の目つき。まるで自分の世界の財産目録を作成し、自分がどこに、いかなる場所に、いかにして、何がゆえに来ているのかを知ろうと突如として決意したかのように、周りのあらゆるものをひとわたり見渡した。それから父は微笑んだ。

私はこの微笑をいつまでも憶えているであろう。それはいかなる世界から来たのであろうか。

累々たる死体にかぶさって、雪は引きつづき霏々として舞い落ち、厚く積もっていった。


自分の姿を鏡で見たシーン。

 

私はゲットー以来、自分の顔を一度も見ていなかったのである。

鏡の奥から、死体がじっと見つめていた。

私の目のなかにあった死体のまなざしは、それっきり私を離れたことがない。 

 

 彼の父に向けた気持ちをみると自分のことも振り返られた。自分自身の家族への気持ちをみたとき、家族の気持ちが救われればいいと思いながら、厄介なことにはならないで欲しい、家族のために自分が苦しまない状況にならなければいいと思っている。我が身可愛さで、ろくでもない。だがまずはいつだって疎外された個人としてはじめていく以外にない。そこからしか歩みははじめられない。

 

エリ・ヴィーゼルの別の自伝は少し読んでみたいと思った。

 

愛の反対は・・・という言葉は、エリ・ヴィーゼルらしい。

http://english-columns.weblio.jp/?p=2093からの転載。)

 

The opposite of love is not hate, it’s indifference. The opposite of beauty is not ugliness, it’s indifference. The opposite of faith is not heresy, it’s indifference. And the opposite of life is not death, but indifference between life and death.

愛の反対は憎しみではなく、無関心です。美の反対は醜さではなく、無関心です。信仰の反対は異端ではなく、無関心です。そして、生の反対は死ではなく、生死に無頓着なことです。

 

1986年10月27日、US News & World Report

 

Indifference, to me, is the epitome of evil.

 無関心とは、私にとって、邪悪の縮図だ。

1986年10月27日、US News & World Report

 

 

Indifference is not a beginning, it is an end. And, therefore, indifference is always the friend of the enemy, for it benefits the aggressor — never his victim.

無関心とは始まりではなく、終わりである。それゆえ、無関心は常に敵の友であり、攻撃者の利益となるものである──決してその被害者の利益とはならない。

1999年4月12日のスピーチより引用
出典:http://www.historyplace.com/speeches/wiesel.htm