降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

当事者研究 弱さとは何か

土曜当事者研究

 

今回は自分にとっての弱さとは何かを考えてみた。

 

・傷つくことを恐れ、自分の気持ちや希望があってもそれを出さないまま逃げてしまうこと。また傷つきそうな場や状況に出会わないようにあらかじめ避けること。相手のちょっとした至らなさでこの人はだめだとやりとりを諦めること。人とのぶつかりを避けること。

 

傷つく状況を避けるように生活を設定したため、不本意に傷つけられたり、人に干渉されにくい状態にはなっているが、自分にとって必要な人との関わりにおける体験ができない孤立状態にもなっている。いいところだけでしか人と繋がれず、関係性が脆弱。踏み出し、そして辛抱強く人と関わっていくことに耐えきれず逃げ出す。

 

・抜け出せない人間関係に巻き込まれることへの恐れ。子どもをもち、もしその子どもが一生の介護を必要とする子どもだったらというような恐れ。自分一人なら逃げ出せるのに切れない関係性が自分を底なしの沼に引き込んでいくような恐れ。

 

生を選んでいるつもりなのだろう。なぜ一生介護だとダメなのか? 自分が選んだことならまだ納得がいき、選べないことは拷問のようだろうか。苦しく、意味をあまり感じられないことが終わりなく続くと想像されることを受け入れられない。

 

だが子どもを見捨てて生きることもできるはずだ。見捨てて逃げるなら少なくともその泥沼に入らない。見捨てることができないのは、そのようなことをした時に自分が人から見捨てられるという認識があるように思われる。つまり自分が人から見捨てられないために、倫理を守らなければいけないとなっている。

 

子どもをみても特に関わりたいとは思わない。結婚したり、出産したりという話しを聞いても、本人が喜んでいるのなら良いと思うけれど、自分の感覚としては、結婚や出産自体がめでたいこととは全く感じられていない。基本的な愛着が薄く、別れや再会でそんなに感情が動かない。そういう自分に戸惑いを感じ、隠し、取り繕おうとするのもまた見捨てられる不安のようだ。

 

見捨てられることによって、更に孤立した時、生きていくことができないのではないかという不安が出てくる。生きていかねばと思っているようだ。だが生きていくなどということが自分の裁量におさまったかたちになるだろうか? 決まった反応を繰り返しているだけにすぎないように思える。自分がコントロールして生をマネッジしているようで、あまり選択などできず、ある状況に対してほとんど決まった反応している。自意識の役割はそれほど大きくないだろう。