降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

Goodbye,Hello センテンスのライブへ

なやカフェで行われたセンテンスのライブへ。

 

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センテンスのお二人と出会ったのは、二人が「たいわのわ」というエンカウンターグループをしている時だった。

 

エンカウンターグループは、この対話の手法は、心理学者のカール・ロジャースが考案したもので、3時間で終わるようなものから3泊4日ぐらいをかけて10人ほどの参加者にファシリテーターが入って対話を続けるもの。日常から離れ、守られた場では深い対話が生まれてくる。

 

カール・ロジャーズ - Wikipedia

エンカウンターグループとは - 人間関係研究会

 

出会った後も、自分たちがやっている岩倉の畑で共に自給を学んだりと何かと近しい関わりをもらっていた。畑をやりながら自分たちとして生きる様々な試みをされていた。

自給は、自分が存在している環境の枠組みに働きかけ、それを自分の求めに合わせて変えていく営みだ。人間の状態は環境との対話(相互作用)の反映としてある。自分の生きている環境の構成が変わると対話的存在である自身の状態が変わる。環境というのはモノだけではなく、人間関係も含める。人間は対話的存在だ。

 

自給は、その対話的存在である自分の求めを知り、近づいていくための手段だ。何が自分を充たすのか。自分の外の世界に働きかけて確かめていく。自分の外の世界に踏み出し、出会う。出会いとは自分の見え方や感じ方を変える出来事だ。自給は出会いに向けた世界との対話であるといえるだろう。

 

生きることは分割できない。自給農法を通した学びの場を自分たちがやってきたのは、畑の作物づくりだけが自給なのではなく、生きることのまるごとを自給する存在として主体をとりもどしていくことだと思っている。センテンスの二人はまさにその意味で自給をしているのだと思う。

 

記憶と自意識を通してしか世界を認識できないものが、生きていることをどのようにとらえればいいのかを考えてきたけれど、自意識にあまり大きなものを背負わせると精神が停滞し、機能不全状態になる。だが機能不全状態だと余計生きづらくなる。だから大きなものを背負う人ほど、生きるためには逆に自意識の余計な圧力を相殺するあり方を試行錯誤を経てやがて見出していくように思う。

 

どうせ同じことをやっていくにしても、どうしたらそれを重くせずに受け取れることができるのか。必要以上のプレッシャーを伴う遠いゴールを設定してもそれで身動きが悪くなれば本末転倒だ。

 

生きていくことをどのように捉えるのか。僕は生きることは何かを達成することではなく、自分のうちにあるものを一つ一つ終わらせていくことであると思う。精神の通りを停滞させているものを取り除いていく。達成や獲得とは単に言い方に過ぎず、実のところ生きることは内在するつっかえを取り除いていて、掃除をしていくようなことであり、充実はつっかえていたものが取れた感覚なのだと思う。

 

センテンスのライブで最初によく歌われるように思う「白川」という曲のサビの部分の歌詞が最初に聞いた時からいいなと思っていたけれど、歌詞をちゃんと読んでみた。

 

言い尽くされた言葉 歌い継がれたリズム ありきたりのダンスに乗って 向こうの世界の果てまで

隣の人の声は遠いところで響いている 確かにある痛みもないものになった

忘れたはずのブルース つぎはぎの風景 はかなく騒ぐ鼓動にまかせ 揺れる波の果てまで

 

僕は自意識にとって世界はメリーゴーランドのように体験され続けると思っている。言葉を獲得して自意識を持った人は、言葉と記憶を通して認識される世界にいる。そこはプラスチックで作られたように、既に何もかもが決定されたような退屈な、古びていく世界であり、その変わらない景色は生きることを色褪せさせていく。この終わらない拷問のような風景を変える出来事が出会いだ。風景はまた新しくなる。メリーゴーランドであること自体は変わらなくても。

 

生存という意味で身体だけの維持なら、同じ風景を生きていけるかもしれない。だがそこで精神は倦んでいく。精神はそこにある価値が決まってしまった風景から別の風景に移行していくことを欲している。手近なもので痛みや苦しみを埋めたり覆い尽くしたりできなくなった人たちにとっては余計に。

自意識で認識できる世界とは、 時の止まった、プラスチックで出来たような世界だ。それは偽物の世界だ。子どもにとってファンタジーが必要なのは、この偽物の世界に放り込まれその「現実」を生きていかなければならないからだと思う。

自意識にとって、本当の世界というのは体験できない。ただその存在を言葉の向こうに察知し、感じることはできるのだと思う。出会いによって風景が変わるということは、その風景が幻想だということを体感することでもあるのだから。

僕がセンテンスの二人と出会ってから、二人は本当に色々なことを終わらせていったのだとあらためて感じた。何かが終わればそこに新しいものが入ってくる。Helloが先なのではなく、Goodbyeが先なのだ。