降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

守ることとしての教育

毎月第一水曜日にあるわく星学夜間部、今回は多様な教育を保証する立法に向けての経緯の報告だった。

 

 

そのなかで出てきた言葉で、教育には「答え」はないという言葉と、他者のリアリティ(たとえば障害など)に対するケアという概念が重要になってくるのではないかという部分が印象的だった。

 

学びとは何かについて考えていたけれど、教育という言葉には何か怪訝さを感じて考えていなかった。何か特定の主体による代替的なシステムなのにそれを自ら真正なものとして正当化するような感じを持っていた。

 

だがオルタナティブな場で真剣に考えている方々と会うと、その活動を自分なりにどう位置づけたらいいのかと思った。

 

まず学びを保証する空間ということがある。学びは自己更新であり、その更新がおこるためには個としての尊厳を提供される場である必要がある。

 

日常は価値あることと価値ないことがはっきりした場であり、状況に対する適切なリアクションをおこす能力が重要なところで安全でもない。人間の精神にとっては戦場のようなところだ。そういう場では更新に向けた動きはおきてこない。

 

次に多様な世界に出会う場である必要がある。同じモノに対しても今までとはちがった別の関わりがされることが誘発される場であること。

 

それらを考えると教育の場というならば、個人に対して尊厳が提供される場、現在の凝固状態がほぐされる場、世界の多様性と出会い、自分と世界の関係性を更新していく場を社会のなかで確保する場所ということになると思う。

 

その場を意思を持って守ることが教育ということになるように思える。教えるというより、学びがおこりうる環境を「守る」こと、そして守ることを成り立たせるための営みを教育ととらえるなら腑に落ちる。

 

人、人間というのは、個人のことではなくてそこに生み出される場のことなのだと思う。有用性や強迫を打ち消されたその場では、個人のうちに更新に向けた自律性が動き始める。その場において人は世界との関係性を新しく紡ぎ直していける。その場を与えあうことによって、人は回復していける。