降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

NPOそーねの当事者研究へ

NPOそーねさんの当事者研究へ。


スタッフあわせて15人強の場で、自分たちの少人数制との規模感の違いがまず印象的。人数が多いと、ある困りごとに対して別の人が近い経験をしていたり、それへの対処をある程度工夫していることがあり、それがシェアされる。

 

 

この規模の人数でやることによって、ある事象を検証していく最初の基盤を得ることができるだろうと思う。

 

 

たとえば、幻聴さん(べてるでは幻聴や強迫を擬人化して認知し対話的に関わる)へお茶を供えたり、優しい口調で対応したりすると、幻聴さんがより優しくなったり、相談にのってくれるような存在になったりする。

 

 

当事者にとってはこれがどういうことなのか学問的に証明されるのを待ってられないし、特に他への実害がないのなら、それを普遍的な真実だなんて大冗談(上段)に主張したり吹聴したりするつもりはないし、ここに何かの構造があるとして、部分的検証的にすすめていくことには大きな意義と生産性がある。

 

 

もし強迫観念や幻聴との対話は、やがて祈りのようなものとなり、次元が変容していくようだ、というぐらいの仮説を立て自分らで色々実験して検証していくならやがてかなりすごい発見が生まれるだろう。これはこれで学問とは違った知のあり方として発展させればいいと思う。

 

 

この営みを繰り返すことでむしろ健全なリテラシーみたいなものは生まれると思う。国営放送でやってたから信じるとか、ツイッターで拡散されているから信じるとかではなく、自分が検証的に何かに関わるということがリテラシーを生むだろうと思う。得た知見は文脈によって変わる部分的なものなのだ。「正しいもの」(つまりそれは権威の強さなのだ)を鵜呑みにすることのほうが個々の発達しうる検証能力を疎外する。

 

 

話しは戻って、多人数、短時間でやる場で抽出されることは、次にはそこに関心がある人たちによって別枠で場を持つことによってよりその構造を明らかにできるだろうと思う。

 

 

そしてそれをまた多人数の場で発表する循環。この発表の場はあるいは当事者研究やっている本人以外にも開かれた感じでやるとさらに面白い流れと循環がおこってくるかもしれないと思った。

 

 

あと、そーねさんは当事者研究のあとにその場で軽いお茶会をしていた。その人たちの間にインフォーマルな関係性が育つので、大人数(自分たちと比べて。)でやる大きな意味は、そこにちいさな社会が生まれていくことだなと思う。

 

 

僕はつまるところ重要なことは、個々の場や技法自体よりもそれらが「漁礁」となり、普通の日々のインフォーマルな関係性の質が変容し、多様な生が成り立つ豊かさが生まれてくることだと思っている。たくさんのことは、実はそこでやられている。今あるものも「漁礁」だが、個々の「漁礁」を生かす「漁礁」もつくれるはずだ。それを考えてみたいなと思う。