腸内細菌の二割が良い方に傾けば七割の日和見菌も良い方に働きだすし、悪い方が二割に近づいていけば日和見菌もそれにならうという話しなど、菌の話しは面白い。
性善説とか性悪説とか自己利益か他者貢献かとかいう受け取り方は可変的な移行状態を無視していたり、自分と他者をあまりに単純に分けすぎていて、こういう言葉を使った瞬間に導かれる結論が決まるので、こういう言葉の前提に疑義が生まれる対話でなければ話す甲斐がない。
自分自身を本質的に良いとか悪いとか、何だかんだと規定してはじめる考えるより、現在の状態は常に移行状態であり、何らかのプロセスであると考え、ならばどういう状態なのか、という探究状態、感じとろうとする感覚を保持することのほうが状況を開いていくだろう。
自分をもう変わらないロボットのように考えるのではなく、たとえば腸内環境だと考えてみればどうだろう。自分というのは状態だ。状態は常に変わり続ける。負担をかければ状態は悪くなるだけだ。
そしてやることは、もともと一定数いたその二割の菌をよい勢いにもっていくこと。ゼロからはじめる必要はないし、全体を変えようとする必要もない。マイノリティである二割のほうにアプローチすれば、七割の日和見菌の働きが変わる。
自分じゃなくて、社会へのアプローチにしても七割にアプローチすることより、改善すべき二割にきっちりアプローチしていくことで、むしろ社会は変容するのではないだろうか。
あるコミュニティは形成途中は多くに開かれているが一応の状態が決まれば閉じる傾向が強くなり、全体も減衰状態に向かう。腸内環境がある時点でよくても、そこに入る食物がまた不適切になったりすればまた悪くなる。
形成途中は健康というのは、豆乳ヨーグルトなどもそうだと思うけど、形成途中は菌の勢いが強いから腐敗菌を抑えるけど、出来上がってしまうと腐敗菌のほうが強くなる。
この形成途中の状態、プロセスにある状態を導きうる環境設定とはどんなものか。ある「達成」は結果的なもの、派生的なものとしてあるし、「達成」したら腐敗の勢いが強くなる。工夫する価値のあることは、この移行状態にもっていく設定、移行状態を保持する設定だろう。
個人内の「腸内環境」を考えたら、次にその個人の周りの環境を含めて「腸内環境」と考える。そしてさらにまたその周りを含めた「腸内環境」を考える。アプローチする二割の焦点はどこか。
個人が変わればその周りが変わる。周りが変わればまたその周りが変わる。と同時に、変わった周りの影響でまた個人が変わる。もちろん閉じた「自足」で欺瞞を厚塗りして自己疎外してしまう人の宿業はあるだろうけれど。
政治の腐敗や、沖縄の選挙が負けて、大きな社会に対する絶望感が吐露されたりもしている。しかしホームレス支援の方たちの話しなどを聞いていると、そこに希望があるのではないかとも思える。
深い傷つきをした人が回復していく時、社会が回復する。自分の痛みを厚塗りして感じなくさせることがもうできなくなった人たちが、それができる人のかわりに、自分を変えながら生きることに向き合う。そのことが周りを質的に変容させる。
彼らが自らの痛みに向きあうことをサポートする。彼らへの向き合いは、自分自身の痛みへの直面を伴うだろう。厚塗りが剥ぎ取られて、取り繕っていた虚しさと惨めさがまたやってくるだろう。しかし、ここが回復の始点なのだろう。
大きな社会がたとえ自分が生きている間変わることがなくても、個人は自分の深い回復に向かうことができる。そしてそれは周りの回復を伴う。生きることの充実は「達成」それ自体ではなく、現在の世界の見え方や感じ方が変わっていく移行状態のなかにあることによるのではないだろうか。
マッドマックスで権力者の子孫をつくるための女性たち、ワイブスは支配された生から逃走し、求める理想の途中で死んだものもいた。だが到達点ではなく、この現実に足をつけ、救いに向きあいつつあるとき、人は満足しているのではないだろうか。
「達成」はいつでも全体的なものではなく、部分的なものであって、それがプロセスではなく「達成」である限りはそこからまた腐敗がはじまる。生という終わりのない移行状態のなかで、また自分にも回復への移行状態をつくる。そのことで旅は支配されたものから、生きられたものになるのではないだろうか。