伴走型支援士認定講座2日目。
子どもが刑務所の母と和解する話があった。小学校入学式の時、上履きをもたすのを忘れて子どもはとても辛かった。そのことを10年たってもずっと母親に言えずにいた。
手紙を用意してそのことを書き、母親と面会して、それでも言いだせない様子なのを付き添いの人にうながされて、ようやく、小学校の入学式のとき・・と言い出したとき、母親はもうそれだけで「上履きじゃろ」と言ったという。
母親もずっとそのことはわかっていたけれど、お互いにずっと言いだせなかったのだ。もう薬物は使わないからもう一度母親としてやり直させてくれと母親は言ったという。
この講座を主催しているNPOは、人は健全に傷つけあうことが必要だという。迷惑をかけないという自己責任論の美徳のもと、助けを求められない大人の姿が子どもや若者の高い自殺率につながっているのではないかと。
釜ヶ崎でNPOをされている方が、弱い人がさらに弱い人に絡んだり、暴力をふるったりする、ということをいわれていた。その方もカフェの客に暴力をふるわれるときもある。
弱い人に向きあうときは、自分もまた同じように傷つけられることを覚悟しないといけないのだろうかと思った。
人は自分の傷や受け入れがたいものの上に何重も膜を張って麻痺させることができる。いや、というよりも選ぶという意識もなくそれをやってしまうのだろう。
幸せや充実を得ようとして、その膜をさらに重ねる。そうして自分を失うことができる。
人は自分を疎外することなく、自足することができるのだろうか。もし「自分の生活」に閉じられるなら、個々人は自分の底にある痛みを感じるよりも、それを何か別の膜で覆い、塗り込めてしまう勢いをうるほうが強いのではないだろうか。
誰かに迷惑をかけられるということ、誰かに迷惑をかけるということ。その回路を持つことによって、個々人は自分自身による止められない自己疎外の円環を破綻させるのではないだろうか。
傷つけられることによって、よみがえる自分自身の痛み。その痛みを避けるためにあらゆることを意図しているのに、同時にそれを破綻させるものに無意識に近づいてもいく。