降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

真っ暗な洞窟で

お遍路に関わるひとたちのことばや姿をみるなかで、私が強く感じさせられたのは、彼らが「かつて」と「いま」を同時に生きており、通常の意味では「いない」とされるものと、「いる」ものを同じように扱って、日々を暮らしているようにみえるということです。それは、もしかしたら「みえないもの」に対するひとつの態度ということかもしれませんし、私たちが現代を生きる中で失いかかっている、ひとつの感性のことであるのかもしれません。
 
過去は現在と共にあり、不在の人は存在するひとと同じように「いま」に佇んでいる。だとすれば、過去は変えられない、もはやないものなどではなくて、「いま」の隣に並んでいて、ここから再び「かつて」を生きることができるかもしれない。そして「いま」過去を生き直すことができるならば「かつて」の意味も変化するかもしれない。

 


midori-blog.hatenablog.com

 

実業家出身で僧侶でもあった吉本伊信が仏教の修行法を一般人でもできるように整えた内観療法という観察法がある。

 

子どものころから現在までの自分と母親との関係でしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことが何だったか、まずは小学校低学年の時のものを1人で1時間思い出しながら探って、1時間後にくる面接者に報告する。その次に小学校高学年の自分と母親との関係をまた1時間調べるというふうにして、それを現在まで続ける。母親が終わったら次は父親で同じことをやるというふうに1週間近くをかけて記憶を想起し、再整理する。

 

たとえば小学校当時の自分の記憶や体験は、その幼さで把握されたままで残っている。あの人にこうされたとか、傷つけられたということも大人になった現在の視点で見直すならば、それがその状況のなかではある程度不可抗力でなったものではというように認識が変わったり、あるいは被害を受けたと思ったこと以上に色んなことを支えてくれていたのだなと捉えるようになったりする。すると、家族なりその周りの社会なりに対する感じ方が大きく変わったりする。

 

これはつまり、10歳なら10歳の自分が体験し認識したこと、15歳なら15歳の自分が体験し認識したことが、放っておけばいつまでも当時の未分化な認識のままで残っていて、現在の感じ方に影響を及ぼしているということだ。それを現在の自分の視点で想起し、再整理することで、ようやく感じ方が変わる。心の世界の時間は止まっていて、そこにあえて光をあて、今の視点で捉え直すまでいつまでも影響を与え続けるようだ。

 

自分の認識のあり方をたとえるなら、自分は様々な物語が乱雑に記憶され散りばめられている洞窟のようなハードディスクに放り込まれている。そこでは記憶された時ままで残っている物語が相互の矛盾に気づかれないまま保存されている。物語はそれができた時の状況に近い状況に出くわすと当時の感情や認識を再体験させる。今ここでおこっているはずのことが、実質的に過去の物語の繰り返しとして捉えられ、反応がおこる。

 

 

次々に何かやることができ、明日のことも考えないといけない忙しい日常では、ハードディスクの暗闇のなかでそれぞれの場所に乱雑に置かれている物語のあちこちにぶつかって反応をおこすだけになってしまう。内観療法は、その真っ暗なハードディスクのなかでロウソクに火を灯し(お題を与えられることがこれに該当する)、物語と物語をつなげ、見比べたり、矛盾しているものを整理したりしていく作業なのだと思う。

 

 

光を当てられた物語は、日常のなかでぶつかって反応しているだけのときとは違ったものに変質する。お題や問いという光によって吟味されることによって、幽霊だったものは枯れ尾花になる。じっくりと一つのところに意識をあて手探りでかたちを捉えていくことができない日常は、どこに何があるかわからない真っ暗な洞窟を疾走させられてあちこちにぶつかることを繰り返しているようなものだろうが、日常の時間と切り離された時間と場所を持つことで、その洞窟自体がどうなっているかを調べることができる。

 

 

この記憶を保存している真っ暗な洞窟の素材は言葉だ。この真っ暗な洞窟は石ではなくて言葉でできている。ある言葉を意識に当てるとき、洞窟のなかでその言葉の周辺が光る。その時それは変更や更新が可能なものになる。

 

 

放っておけば幾つになっても10歳の時の把握と反応がそのまま残っているように、過去のもの、失ったものであっても、この真っ暗な洞窟のなかでは、その記憶と反応はそのままにされて残っている。現実にはその人が亡くなっていてもその人は現在に影響を与え続ける記憶としてその場所に残っている。この洞窟では付け加えられることはあっても、何も失われていない。かたちを変えるだけだ。

 

 

少女の飼い主を失った子犬が、悲嘆の時期を過ごしたのち、飼い主を想起する時いつでも飼い主のリアリティがそこにあることに気づく菊田まりこ『いつでも会える』のように、あるいはお父さんを失った子どもが一瞬だけ通り過ぎるようにであった男性をそれをお父さんだとわかっているよと語る長谷川義史『てんごくのおとうちゃん』のように、沢山の物語が失われたものとの再会を取り扱っている。

 

 

いつでも会える

いつでも会える

 

 

 

てんごくの おとうちゃん (講談社の創作絵本)

てんごくの おとうちゃん (講談社の創作絵本)

 

 

真っ暗な洞窟のなかでは、時間が止まっている。そしてそこでは今とか昔が同時にある。そのような洞窟のなかに自分がいる。そこでは失われたように思われるものも失われておらず、さらにはそれを想起するものと対話することによって、自分に必要な体験が与えられる。

 

 

失われたもののリアリティを想起するものとやりとりする。そのことで、自分は赦されたり、そして感じられることが変わってくる。その方法はお墓や仏壇に話しかけることでもいいだろうし、その人に宛てたかのような作品を作ることでもいいだろうし、演劇をすることでもいいのだろう。