降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

文化 ささやかな逸脱と反逆として

大澤寅雄さんの文章を受けて。

news.livedoor.com

昨日送信した文化芸術推進基本計画のパブコメに関連して、このニュース。
http://news.livedoor.com/article/detail/14116493/

「稼ぐ文化」という言葉には抵抗があります。「稼ぐ文化」「稼げる文化」「文化で稼ぐ」…いろんな言い方があって、それぞれ微細なニュアンスと文脈の違いがあるし、「稼ぐこと」を軽視してはいけないこともわかってはいるけれども。正直なところ、品のある言葉だと思えないです。

過去10年くらいで「文化は役に立つ」という言葉が広がりました。教育に、福祉に、まちづくりに、国際交流に、文化は役に立ちますよ、という言い方で、そこには私も同調してきた自覚はあります。ただ「役に立つ/立たない」という評価軸が、文化そのものの価値と同じだとは思いません。文化が「結果として」何かの役に立つということは、実際にあるし、文化に関心が薄い人にとって、そうした説明も必要だと思ってきました。

そして、一昨年くらいから「文化で稼ぐ」という言葉が広がりつつあります。文化は経済波及効果を高めますよ、新しい産業にインパクトを与えますよ、文化GDPを成長させますよ、という言い方。ここまで来ると、「役に立ちますよ」と同様には同調しにくいんですが、「結果として」稼ぐことにつながることは、実際にあると思います。

ただ、この「文化は役に立つ」「文化で稼ぐ」という考え方、つまり文化芸術推進基本計画の言葉で「社会的価値・経済的価値」という側面は、文化そのものの「本質的価値」が高まることの「結果として」生まれるものだと思うし、その「結果として」生まれた社会的価値・経済的価値が、文化の「本質的価値」へと循環させないと、本質的価値がどんどん擦り減ると思うんです。

で、このニュースの文章を読むと、
公的資金文化財の修復保存など、経済原理が回りにくい部分を支えてきた。この“稼げなかった文化”も、稼ぐモデルができればより多くのクリエーターが集まり多様性と創造性が広がるはずだ。つまり新施策では公的予算を呼び水として、産業界と連携し何倍もの価値を示す必要がある。>

ここなんだな。私は、この部分が、ホントにそうだろうか?と思うところ。「稼ぐモデル」は、文化の多様性や創造性を広げることになるだろうか?私は「稼ぐもの」がどのように「稼げないもの」を支えるか、その「循環のモデル」が必要だと思う。

少なくとも文化庁が施策としてやる意味があるのは「稼ぐモデル」をつくることじゃないと思うなあ。

 

僕は文化というのは、放っておいたら既にある強いものや理屈に圧倒されて存在したり生き続けたりできない可能性を愛するというものであると思うし、それが人間性なのだと思っている。

 

 

昔、こどものともだったかに紹介されていた北海道のある植物園では北海道の気候でも自律的に生き続ける花々が植えられている。しかし、人が全くサポートしなければそこは熊笹だけの原野に戻る。熊笹の方が強いのだ。強さの理屈も美しいかもしれないが、それはただそれだけの世界だ。

 

 

ニホンザルの観察している研究者の人に質問したことがある。このサルのなかで障害などを持って生まれたサルはどうなっているのかと。答えはそういうサルはいないということだった。いてもいつの間にかいなくなっていると。

 

 

強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる意味がない。これは優しくない人に価値がないということではなく、そんな世界で生きていたって仕方がない、生きる甲斐がないという解釈もある。僕もこの解釈だ。

 

 

人はこの終わりのない矛盾のなかで住んでいる。サバイバルの世界にありながら、その内側にサバイバルの理屈を侵入させない別の世界をつくる。後者の世界で人が人としていられる場所だ。人の人たるところ、人の人たる願いは、強いもの、サバイバルに支配された世界からささやかに逸脱することであると思う。

 

 

人は、放っておけば現れてこない、この世界にある別の可能性を探究してきた。それをこの世界に現出させ、この世界のささやかな友人として共にあることを模索している。それが逸脱であることを忘れたところでは、世界の破壊が進行しているけれど。

 

 

文化(自由でもいいけれど。)を成り立たせるとは、実際的には、放っておけば現れてこない可能性、消えていく可能性を守るために強いものを侵入させない壁をつくること、あるいは津波のように押し寄せてくる強いものを常に押し返すことだと思う。

 

 

それには高いコストがかかる。生きものには限界がある。だから文化はやがては大きな時間の流れのなかで消えていくささやかな逸脱であり、ささやかな反逆であるものだ。だがそこに人の願いがあり、人として生きる甲斐がある。

 

 

稼げる、役に立つというのは、有用であるということ。有用性とはサバイバルの理屈だ。そしてそのサバイバルの支配からの逸脱と反逆を本質とするのが文化であり人間性だ。

 

 

だが社会で、何が「文化」かを定義するのも結局は強いものによって、ということにはなってしまう。強いものが文化を認定するとかは、強いものの自己強化であって、そもそも矛盾なのだが。しかし、文化とは何かを考えるならば、それが強いものの支配と蹂躙を遮断し、放っておけば存在しなかった可能性をささやかに現出させるもの、反逆と逸脱としてあるのかどうかは揺るがせない指標としてあると思う。