降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

タイムファンタジー

タイムファンタジーが好きだけれど、君の名は。は見てなかった。

 

 

ハッピーエンドが軽薄に嘘っぽく感じられるのは、失われたものと出会えたならそれは失われたものじゃないから。でも失われたものと出会いたいのが望みだから。 現実化すると嘘になる。

 

 

あり得ないだろうが、あったかもしれない可能性が確信されるようなはざま。人に必要なのはそういうものなのだろうなと思った。

 

 

星の王子さまのボアに飲み込まれた象、箱に入れられた羊と通ずるように思う。現実化されたものは本当のそれじゃない。それは現実と現実のはざまにしかない。あるいは否定されたものの向こうにしかない。自意識としてのわたしが出会うことができないものは、そういうところにしかいられない。

 

 

自意識としてのわたしは、時間を止めた虚構の世界に住んでいる。時間を止めることによって、世界をわたしとして擬似的に体験することができる。

 

 

世界との一体性を犠牲にしてわたしという自意識は作り出されている。だがそれはいわば死と孤独を生きることであり、強い郷愁を生む。

 

 

物語で結ばれるのはある時間と別の時間。わたしとして生きることは時間の止まった死として仮想的な体験をすること。死として生きるものが、別の時間、生という、世界との一体性であり、彼方(あなた)であるものと結ばれる。それはわたしの消失を招くはずで現実ではあり得ない。

 

 

タイムファンタジーは、たとえとしてしか感じられないもの、しかしなによりも強く存在する郷愁、そしてそこに戻れない悲しみを描いているように思う。