以前デモクラシーナウを観ていると、その年におこった様々な出来事や大国の狂気を立て続けに流している動画があった。
はっきりいって酷いものだった。世界はなんで自ら終末を求めるような歩みをこんなにも着実にすすめているのだろうと思わされるようなものだった。
だがそこで流れていた音楽は動画の深刻さをさらに煽るものではなく、まるで映画のエンドロールのようなものだった。それに衝撃を受けた。現在進行中のことなのに、まるで終わってしまった過去の遠い世界のことのようだった。
動画で流されているようなことはそんな遠い世界のことのように受けとるべきことではないのではないか。だがそのようにしか受け取れない。
この感覚は、たとえば風の谷のナウシカの喜びにあふれたラストからいきなりそれを突き放すような音楽とともに、誰の声もなく断片的なシーンで表現されるエピローグで受けたものと近い。
最後は緑の芽が出ているシーンになるのだが、村人が喜ぶ最高潮のシーンからの突然の転調し、突き放される衝撃は強かった。ナウシカは小学生の頃にみていたから、なんでこんなに悲しいような感じにするのかわからず、しかしそこにどうしようもなく心をつかまれてもいた。
クリスマスに観に行った菅原直樹さんの演劇でも、ラストの字幕で急に時が過ぎ、若かった登場人物もみな死んでしまうとき、同じ感覚がした。
無意味さ。この感覚は無意味さに対してのものだったのだと思う。大きな時間の流れのなかで生は何の意味もない。それが一人の生でなく、人全体に拡がったとしても、何の意味もない。
虚無的な認識。だが直観した。この虚無こそが実は埃のようにくだらないすべての存在をかけがえないものとして感じさせるものなのだと。全てのものは一時的であり、そのことによって心の震えが生まれるのだ。
言葉は心のなかに時間の止まった世界をつくる。擬似的な永遠の世界。所有され、固定され、変わらないけれど、退屈で疎外された嘘の世界。心の震えはその固定化によって震えることをやめていく。
時間の止まった世界で回り続けるメリーゴーランド。言葉によって自意識を持った人はそのメリーゴーランドに乗っている。それは呪いであるといってもいいものだ。素晴らしい夢も何度も見ていれば飽きる。そして全てのものは時間とともに色あせていく。
しかしその時間の止まった世界で生きていく。嘘の世界で生きていく。本当の世界は自意識には感じられないのだ。火は火を焼かず、水は水を洗わない。一体化しているものは他を眺めることはできない。
時間を止めたフィクションとしてしか世界は眺められない。だからただ旅をしよう。メリーゴーランドから見える世界の残像を変えていく。動けないものにとってはそれが旅なのだ。
残像として、残響として、擬似的にしか世界は体験できない。だがその世界を眺めるフィルターは更新していくことができる。いつも終わった世界にいるけれども、その風景は変えることができる。