降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

通路の詰まりと回復 菊地直子さんの手記から

自己不信と他者不信は別々のことではない。それらは自分が閉じていなければ既に開いていつも息づかせる流れを運びこんでくるいわば「通路」の状態のことを指していると思う。

 

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気づいてみれば自分が閉じているためにその感じ方が作り出されるのだが、そうは思えず、他者や世界がもともと悪く自分はその被害者と感じられる。無自覚ではあれ、自分が作り出したその他者像、その世界像のフィルターを通して認識がされ、体験がされる。

 

 

気づきや支持的環境は必要だけれど、無自覚に遮断しているものが開けば世界の体験のされ方は変わる。既知の世界、つまり思い込みの世界のリアリティの外に踏み出すとき、通路は開く。その踏み込みが既知の世界に閉じ込められ、認識や感じ方までが決められていた状態を終わらせる。通路からは自分を息づかせるものが流れ込んでくる。

 

 

その流れを回復させていくことが、即ち人間が回復していくことに他ならない。そして回復の方向こそがそもそも自分が行きたかった方向であり、同時にそれ以外は死していく方向だと知る。それまでの重みが大きいほど、このことは深く理解される。

 

まだ通路に詰まっているものは何なのか。それを取り除きはじめる。生きて回復していく方向はそちらにしかない。そして詰まりが取り除かれた通路の状態こそ何を獲得せずともそのままで生の解放と充実が感じられるところだ。


 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。

 

 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。

 

この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。

 

 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。


「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」