降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

「健全な」逸脱のために

月3回ぐらいのペースだが、身体教育研究所の稽古に通って3ヶ月になる。

 

カラダ系のことは3日坊主が多いけれどそれでも続けられるのは、自分の探ってきたことと通じて、また探っていくことの手がかりになる実感があるからだろう。

 

あと教えてくれる方とのフラットな出会いかたも。
亀岡のフリースクール学びの森の北村さんが主催している教育系の勉強会に参加した時に同じ参加者として出会った。正座するとかやっている人がだいたい着物着てるとか、見た感じかなりハードルが高そうで、何年も前から公開講話とか聞きにいっていても、継続的な稽古には二の足を踏んでいたが、まさにいい機会だと思って申し込んだ。


さて、あらためて断りをいれなくてもいいかとも思うけれど、僕がここに書いていることは私見であって、学問的根拠などない。またここで僕が誰かの名前を出したからといって、勝手に解釈しているだけで、本当にその人がそう考えているかどうかはわからない。念のため。

僕は生きている当事者として自分の当事者研究をすすめているだけだ。そのなかで人間とは何かとか、文化とは何かとか、そういう位置づけが必要になってきた。常に行き詰まりがあって、その状況をひらくために考えられることは考え、必要に応じて自分なりの観点を導入してきた。自分が状況をひらいて生きていくために必要なことは、学問なりがたどり着くのを待っていられないから。難しい本などは読めないが、僕は事例と人がその感性でとらえた言葉があれば必要な考えは進めていける。

野口裕之さんの話しは、僕の解釈だが、今まで考えてきたことを包括的に理解できるようにしてくれた。人間が4つ足歩行から2足歩行に移行したとき、それまで統合されていた動物としての合理性の焦点が外された。

 

人間の自由とは、統合されていたものがある意味バラバラの部分になって、今までとは別な用途で使えるようになったことによる。例えば、歌うことは四つん這いの状態では難しい。そういう呼吸ができないのだ。それまで統合されていたものをバラしたことによる不都合は大きいが、それによって人間はそれまで統合されていた焦点を外され、行き場を失った力の流れを利用する自由を得た。

人間の自由、そして文化は逸脱から生まれている。「自然」より文化を優先する。なぜ文化が優先なのか。「自然」に回帰したところで強いものが弱いものを支配する自然の理屈のままになるだけだからだ。いわばそれが嫌だから二足になったのに、元に戻ったところで仕方がない。

 

水は上から下へ行くのに、動物は海から陸へ陸から空へと行く。なぜかといえば、生きものの世界は、環境による淘汰圧力が高いからだ。生きものの関係が飽和していくと海はいづらくなり、陸も圧力が高ければ、圧力の低い空を生きる場にする。環境は常に飽和に向かい、圧力は高くなる。生きものは、いわばそれまでの秩序から脱するように変化する。

自然における調和とは、実態としては長い年月をかけた繰り返しによる飽和だ。自然が見事に調和しているように見えるのは、環境があまり劇的に変わらないことを基盤のもとで、同じように生きものがやりとりし、循環し、それ以上変わらないぐらい飽和しきったということなのだ。

 

さて、二本足になったのも環境の圧力が高いためで、元の圧力状態にいわば耐えきれず逸脱したわけなのだから、生きものとしても元に戻りたいわけがない。自然に一体化するのか、それとも逸脱がもたらす可能性を遊ぶのか。人間は後者を選んでいる。いわゆる自然に戻ってもチンパンジーの子殺しみたいな世界が自然だ。飽和した残酷な美しさはあっても、生きている個体としては常に圧迫され、強迫されて強いものの理屈に従う。サバイバルの世界だ。

文化とは、サバイバルの世界に生きながら、でも、こと人間の間においては、サバイバルの理屈を打ち消して生きようぜということなのだと思う。サバイバルとは強いものが弱いものを踏み台にして飽和に向かう何の面白みもない世界だ。

 

今あるかどうか知らないが、北海道に向陽園という植物園が作られ、そこでは北海道の気候で生きていける様々な花が植えられている。花は一応自律的な生態系として生き続けることができるが、もし人間が手を引けば、そこはまた熊笹だけが広がる原野に戻るという。熊笹だけでも美しいだろう。でも面白みもない。

 

放っておけば、出てこないであろう可能性を現出させる。その可能性を遊ぶ。それが文化というサバイバルの理屈からの逸脱を選んだ人間なのだ。僕は無農薬で畑もしているし、畑以外でもどちらかといえば生態系になるべく配慮した選択をしているが、自然原理主義者ではない。サバイバルの理屈が人間に持ち越されると、人の心は更新できなくなる。サバイバルという合理性に支配されているところでは、それこそ働けない人は抑圧され、排斥される。

 

サバイバルという生き続ける理屈と、心が救われる理屈は別々のものであり、両立しない。僕は心が救われる理屈とそのあり方を探っているのだから、サバイバルの世界に全面賛成したりしない。もし生存と心の救いが天秤にかけられるのなら、心の救いのほうに行きたい。サバイバルとは永遠の闘争であり終わりがない。

人間は逸脱するために文化をつくった。しかし、残念なことに人間は自分が作ったものに支配されるジレンマを持っている。作った道具の理屈に支配されるように、自分たちが作った環境に自分たちが無自覚に支配されるのだ。ある環境を作ることによって、どのようなリアリティが生まれ、自分たちに影響を与えるか、人間にはわからない。

 

何かを用いて、ある逸脱を行ったところで、その用いた何かによって人間は支配されてしまう。言葉の獲得によって過去と未来を持ったが、そのことによって現在が縛られてしまうように。

 

結局どうしたらいいのか。何かを用いて逸脱をする。そして次にその用いた何かの支配をさらに打ち消す。そうしないとせっかく何かからは逸脱しているのに、別のものに支配されているだけになってしまう。人間は環境からの精神面での影響を捉えきれず、支配されてしまう。時代が変われば、また環境が変わる。

 

つまり逸脱の逸脱たる本懐を求めるなら、自分たちが作ったもの、文化、そして変わりゆく時代という環境の支配の影響をその度に探って確かめ、打ち消すことが必要なのだ。それでこそ逸脱が「健全な」逸脱たりうるということになる。

 

逸脱は、飽和した秩序や安定を後にしているので、危険で、どこにも終着点を持たないし、何の幸せも平和も約束されていない。遊ぶのか、一体化して支配されるのか。遊ぶのが面白いから遊ぶほうを選んだ。ただそれだけということなのだろう。