降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「明日」の支配から解放されていくために 終活ゼミ。案内文

明後日から終活ゼミを開始します。

 

全ての活動は、終活の一部分として位置づけられる。ずっとやっていくので、今回来れない人も関心があったら打診ください。

 

明日なきところは、実は「普通」から排除された人たちが同じ地平に立てるところ。明日への隷従から解放されていくために。

 

案内文

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終活といっても、死ということ自体は体験できないので、終活は死に向かう過程を扱うものと考えていいかと思います。

 

死に向かう過程というのは、死という終わりをほぼ考えずに安定して繰り返される日々がなくなり、今まで保証されていたものが失われていく過程でしょうか?

 

一般的に終活とは、準備のいい人が自分の失われていくものの被害を小さくしたり、喫緊の状況に直面した人が仕方なくすることであって「必要もないのに」積極的にするものではないように認識されているかもしれません。

 

べてるの家において、精神障害がある当事者の人たちがもっとも変化し、エンパワーされることは、メンバーの死であり、お葬式であるとべてるのソーシャルワーカー向谷地生良さんは言います。病気で激しく生命力を使った人たちの寿命は短い。それは80歳生きるつもりの人からすれば不幸せな恵まれない生だったのでしょうか。

 

長い時間を生き続けることによって、生は「本物」となる。また長い時間を使って達成する事業やステイタスは自分の生に「意味」と「幸せ」をもたらすために欠くことはできない。本当にそうでしょうか。どこかに辿りついてから、本当の生ははじまるのでしょうか。

 

いつか来る「本当の生」への到達をイメージすることには強い高揚が伴います。その高揚のために生きようとしたくなる。しかしその高揚は、実のところ日々の抑圧や痛みをみないために要請されています。

 

いつか来る達成のイメージがもたらす高揚と引き換えに、不満足な今日を我慢する毎日という転倒です。いつしか夢は本当に叶えるためのものではなくて、不満足な今日を見ないようにするために設定されているものになっています。不満足な今日を我慢するための明日。

 

「イメージしていた明日」がなければこんな馬鹿馬鹿しい、割りに合わない今日を過ごしただろうか? ある時、急に安定して続いていく「未来」がなくなったときに、自分自身への抑圧があらわになります。結局はそうありたい姿の引き延ばしとして、明日があったのです。だけれど、「明日」のほうから自分が我慢する代わりに守ってくれるはずだった約束を破棄される。

 

事業やステイタスの達成ではなく、日々自分がありたい姿に目を向けること。それは実現可能なことでしょう。幻想を捨てるときに喪失感はありますが、その地点を基準に生を拓いていく。達成後の幸せの希求から、過程の充実として体験される生への移行のあり方を終活ゼミでは考えていきます。

 

終活という場所は、実は高齢者だけでなく、障害者や病者、「普通」から排除された全てのマイノリティが同じ地平に立てる場所であることに気づいていくでしょう。そこ地平からの文化を作っていくことを終活ゼミではしたいなと思っています。

 

終活ゼミ。ワークショップ

とき 11/23(木)13時、11/25(土)19時(今後も継続していきます)
ばしょ ちいさな学校鞍馬口 (京都市北区

要申し込み

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