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ここという閉塞から逸脱していくための考察

イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』 11/16南区DIY研究室読書会感想

木曜日は南区DIY研究室で開催されたイリイチの読書会に参加した。

本はイリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』。

 

この語コンヴィヴィアリティの意味合いは微妙なものがあって、日本語にはこれといった適訳が存在していないようである。「自律共働」「自立共生」「共愉」といったさまざまな訳語があてられており、上掲の訳書では「自立共生」とされているが、いずれにせよ、この理念が本書の、またイリイチ思想のキーをなす重要な概念であることには間違いがない。本書に限らずイリイチの文章はいっけん難解であるかに見えながら、実はその理解は、このコンヴィヴィアリティの理念を実感的に把握できるか否かにかかっているのである。

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イリイチは人を支配して疎外する道具や制度は、放っておけばそれ自体の理屈によって自律的に進展・拡張し、やがて人を疎外し駄目にする環境が世界を覆うと考えたようだ。だからそこに干渉し、バランスを調整するセンスを持った人たちを確立するあり方を考えた。だが晩年に彼は自分が望んだことが達成されなかったことを明かし、失望を隠さなかったそうだ。

 

今回の読書会で驚いたのは、イリイチがこの本を出した70年代に毛沢東を評価していたということ。それが事実だとすると、イリイチは独裁的な一指導者の政策が自らの理念と適合しうると素朴に考えていたのかなと思う。

 

しかしキューバカストロのもとで都市が野菜の自給体制を整えるなどのことがおこっていたようにきくので、経済的貧しさや資本主義からの距離の取り方や制限が人から離れた制度を作ってしまうことに一定の歯止めをもたらし、多くの人がコンヴィヴィアリティを体験する状況を維持するということはある程度はあるのかもしれないと思った。

 

 

道具や制度の制限は、資本主義社会においてはおそらく難しいのではと思える。幾らでも抜け駆けされる。だが彼が提案する具体的な方法はとりあえずおいて、彼が提唱したコンヴィヴィアリティという概念は考え方の核として現代にも通じるものと思う。それは既知の世界と未知の世界の境界において、人が自身の内的認識を更新していくこと、そして他者との関係性を再編していくことに関わることだと思う。その更新において人は成熟した知性を備えていく。その更新の機会をそれぞれの人がそれぞれに持ち、そこに日常的にアクセスすることが人としての倫理性や精神的健康さを保つのではないかと思う。

 

 

話しが飛ぶようだけれど、以前豆乳でヨーグルトを作って食べている時期があった。夏は常温で1日で出来上がってしまい、それを2、3日また放置するとカビが生えてしまう。冬は出来上がるのも遅いがカビが生えるのも遅い。豆乳がヨーグルトに成りつつある間は他の腐敗菌を寄せつけない。だが一旦出来上がってしまうとその抵抗力は低下し、他の菌の力に負ける。

 

 

何をいいたいかというと、人間にとって重要なのは、ある種の完成状態を先取りして与えられたりすることではなくて、そこへ移行する時のプロセスを提供されることなのではないかと思う。そのプロセスが奪われることが人間にとって根本的な疎外状況にあるのではと思う。その疎外状況からおこることは、滞留であり、腐敗であるだろう。

 

だがプロセスの提供といっても、そのプロセスがどのようにおこるかは本人しか気づきにくいし、調整もまた難しい。だからどこかの主体が必要と思われるものを何もかも個人にインストールするようなことではなくて、一定の環境を整えながらも個々人が自ら選び取れることを可能とするようなグランドデザインが必要であるだろう。メキシコのトセパン協同組合のような、大家族単位の職能集団の連合が現実的には有りうる選択肢なのではないかと思う。

 

僕は10年ほど前に糸川勉さんという人に出会い、彼の見つけた自給の思想に自分が考えたい重要な何かがあると直感し、畑も始めながら自給とは何なのかをずっと考えてきた。今、それを言葉にするなら自給の意義とは、自分と世界との関係性を更新する整えやアプローチを自分に引き寄せ、取り戻すということであると思う。

 
イリイチのいうコンヴィヴィアリティは、他者や世界との関係性を更新する移行状態へのアクセスの重要性を指摘していると思う。その移行状態を自分にもたらした結果、先の「共愉」であるとか、「自律共生」だということが導かれてくる。そこへのアクセスは自らを既知のものと未知のものの境界に直接触れえるものにすることによって可能となると思う。

 

コンヴィヴィアリティを我がものにする。豆乳がヨーグルトになるように、何が自分をその移行状態を提供するのか。それを問い、感じ取り、アクセスできるように自身を研ぎ澄ます。移行状態はやがて更新を生むが、その更新も留まれば腐敗する。重要なのは、結果的な更新それ自体よりも移行状態をもたらすシグナルを探り、感じとり、近づく力であるように思う。

 

 

自分で自分の更新状況を引き寄せられるようにする。自給やDIYの意義は、成果物それ自体ではなく、更新を引き寄せる感覚を自分のものとするアプローチであり、リハビリであるといえるのではないだろうか。自分の求めを深く繊細に感じとること、そしてフィットする感覚を体験すること。移行状態にアクセスすることには直感的、本能的感覚が必要になるが、まさにその必要性によって感覚が活性化する。

 

 

今、自分が住む資本主義下の社会において問うべきは、何が自分にとってコンヴィヴィアルなのかだと思う。自分に移行状態をもたらすものはどんなものか、移行状態をもたらすような環境の整えとはどういうものか。それを問う。

 

移行状態とは、更新に向けたプロセスが身体に発動している状態だ。移行状態は個々人の感覚の研ぎ澄ましによって近づくしかないが、同時に先に述べたそのための環境の整え、グランドデザインが必要であるだろう。そのデザインも国や企業や教育機関のようなものによってではなく、自分たちが考えることによって成されるものだろう。なぜなら、そのこと自体が移行状態をもたらすから。重要なのは、成果物自体ではなく、個々人が主体的に移行状態を導くことを可能とする仕組みであり整えなのだ。

 

移行状態を自分たちのものとして取り戻すこと。これは言い換えるならば学び方を学ぶことともいえるだろう。自らを更新する学び方を感覚し、取り戻すこと。自給やDIYの意義はそこにあるだろうと思う。

 

 

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

 

 
お題「イリイチ」
お題「DIY 井戸端会議」