降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

哲学カフェ 「政治について」 働きかけと秩序 オープンダイアローグを参考に

長福寺で行われた哲学対話「政治について」に行ってきた。

 

朝9時からの開始で場を囲む人はスタッフをいれて9人。コミュニケーション・ボールというほわほわの玉を使って、それを持っている人が話せるという設定。

 

国や選挙などに関わるいわゆる政治と日常的実践における人への働きかけも含めて考える。何々党がどうのこうのという話しにはならない。

 

意識的であるか、無自覚であるかということをあまり区別せず、人はどのようにあろうとも周りと関係性を持っており、影響を与えるのだからそもそも政治的存在だと考えていた。

 

だが途中で意識的な部分と無自覚な部分を区別したほうが整理がされやすいようだと思った。あえて政治という時の政治は、無自覚にやって影響を及ぼしている行為ではなく、意識的な働きかけの後におこる何がしかの変化を狙いながらやる行為だとしたほうがすっきりすると。


働きかけた後に何がしかの関係性の変化がある。一方、働きかけないと、そうなったり動いたりするとほぼ決まっているようなことしかおこりにくい。働きかけることは、「放っておいたときのいつも通り」にならないよう、むしろどちらかといえばより望む方向に近くするための変数をそこにかけるようなことだと思う。

 

生きものは自分の強さや生存可能性をより増すために他の周りに働きかけるけれど、強いものが働きかけるとき、弱いものが一斉に跳ね除けられ、環境は多様化とは逆の方向性にいってしまう。


個性ある存在が生きていくにとって必要なものはそれぞれ違うが、一つのものだけがを幅を利かす状況は、環境が単純化・貧困化しているともいえ、それぞれの存在が活性化する機会をより奪われているといえるだろうと思う。商品としてお金を払わないと利用できないような多様性ではなく、日常生活で日光や空気のようにただシェアされる多様性が重要であると思う。


強いものが強いままに振る舞うと、たとえば北海道の原野でクマザサだけが延々と広がるみたいなことがおこる。強いのは結構だがつまらない。他のものが生きられない。自由や多様性の余地は、実際上、強いものを強いままにさせず、制限することによって生まれる。

話しの場の多様性という視点から考えると、コミュニケーション・ボールのような制限は、強いものが強いままに他を押しのけて振る舞うということをあらかじめ弱める効果がある。他を押しのけても自分が喋る強い動機、放っておけば場を支配する強いものの放縦さを制限すると場に他の自律性が生まれ展開してくる余地ができる。


話しの場で強いものとは、単に他を押しのけ、自分が喋る勢いがあるということだけでなく、正しい・悪いとか、結婚して子どもを持つのが普通とか、この社会で少なくない人が無自覚に提示する「当たり前」も、押しつけられる強さを伴って、そうではない人を黙らせたり、萎縮させる効果がある。

 

だが、その無自覚な「当たり前」を持っている人は、自分もまたその「当たり前」にギリギリと締めつけられている。それこそあざがつくほど締めつけられているのに、それが解かれるまで実感がないというような感じもある。

「当たり前」を持たない人が自身を表現することによって、無自覚な「当たり前」を持っていた人は、他人の発言に自分の声をきくということがおこる。強いものは弱いものを抑圧して存在しないものにする。それは個人の内部でもそうなのだ。その抑圧による秩序を変えるには、弱いものの声が出ることが必要なのだと思う。


発症したばかりの統合失調症の人に対して、場を設け、対話を続けることによって、症状の重篤化を劇的に軽減するオープン・ダイアローグという取り組みの代表的な実践者が自分たちがやっているのは治療法ではなく、政治的なことpolitical thingsだと述べている。


オープンダイアローグでは、家族や治療者、友人、患者が一堂に会して対話をするのだが、その対話の手法の一つにリフレクティング・プロセスというものがある。それは一斉に人が話すのではなく、ある人が話しやすいようにその人と聞き手がやりとりしている時は他の人は介入しないというものだ。これもその場の強いものがすぐ状況に介入して自分の解釈を押し通した場にするということを防ぐ設定だ。


強いものが自分の強さを維持したりより強化したりという、古い同じ秩序へのしがみつきのことに政治という言葉が使われていることも多いかもしれないが、そうではなく、放っておけばドラえもんジャイアンのように場を支配し、自分のための秩序を作って場を貧しく停滞させるものをあらかじめ防ぐ意図をもつ働きかけ、設定をすることを政治とよんだらいいのではないかと思った。

 

秩序は、人であれ、理屈であり、規範であれ、その場にある強いものが維持している。それは抑圧を伴っている。場の状態を質的に更新するためには、別の秩序を浮かび上がらせる必要がある。それは強いものの強さをあらかじめ奪うということによっておこる。それはバランス調整ともいえるだろう。話しの場というのは特にそういうものだと思う。強いもの、パン食い競争みたいなイニシアチブの取り合いや理屈や常識や人を責める「あるべき」一旦脇に置く。そういう場で何か自律的なものが立ち上がり、場と人を更新していく。

政治という言葉をいい意味で使うなら、自律的な豊かさ、多様性を生み出していくためのバランス調整を企図した働きかけのことであるだろうなと思った。

さて、ある参加者が自覚的になることによって主体的になるという発言をしていた。ふと、逆にいえば、無自覚なことというのは、本意に関係なく動かされているってことかと思った。無自覚であることは、ある影響や働きかけに対して、(向こうの意図がある時は意図通りに)決まった反応するだけと。このことも印象的な発見だった。