降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

報告 哲学カフェ 信頼から中動態へ

18日に哲学カフェをやりました。

当初「友人とは」をテーマにしていたのですが、場の状況に合わせて友人に関わる「信頼」とは何かでやりました。

人を信頼するという時の信頼とは具体的にどういうことなのか。自分を傷つけたり、危害を加えない状態が変わらずにずっと続くということなのか。

 

自力をあきらめること、つまりコントロールをかけようとしても意味のないことを知る、ということではないかと思いました。それはゆだねることであるとは思いますが、完全に受け身になるのとも違う感じです。

 

能動的でなければ必然的に受動しかないのか。能動か受動かという二者択一の軸は、意思であると思います。社会通念上、人は意識がある時、全ての行動には意思があるとされます。意識が混迷したり、喪失しているような状態で犯したことは罪がなくなったり軽くなったりします。つまるところ、現代社会で意思は、誰かが何かをやった時の責任(誰が悪いのか)の帰属のために必要とされます。

 


しかし、意思的主体という前提のもとに、意思的主体という前提のもとに、自分自身の思考にも当てはめられます。ぼーっとして一日を過ごしてしまった。やるべきことをやらなかった。これは私の責任だ。意思が弱かった。私が悪いためだ。こういう思考になります。

 

しかし、こういうふうに全ての行動は意思的なものであり、責任があると考えることは、現実には人を同じ状態にとどめ、延々と同じことの繰り返しを招くことが知られています。

 


アルコール依存者の自助グループ、アルコールアノニマスでは、回復へ向かうための12ステップが指標として確立されていますが、その最初のステップが自分が無力であることを認めるというものだそうです。

 


自分が無力と認めるならば、自暴自棄になるのではないかとも思われますが、実態はそうではなくアルコールを断てる人は、自分の意思で克服するということをやめた人であるそうです。

 


自分の意思の力ではないものでアルコールをやめることができるというのはどういうことなのか。そこででてくるのが能動でも受動でもない、中動態という概念です。

 


古代ギリシアでは意思という概念はなかったそうです。寝ること、死ぬこと、誰かを好きになることなどは、自分の意思で操作したり、ボリュームを調整したりすることはできません。そこには自律的な動きがあり、自分はそれに影響されます。

 

自分の状態を自分の意思が支配しているものととらえていると、自分はそれだけでいっぱいいっぱいになってしまいます。しかし、自分の状態は自律的な何かが動いている状態だととらえれば、そこには余裕が生まれ、その状態に対して、別の付き合い方ができるきっかけが生まれます。

 

アルコールをやめられないダメな自分とアルコールをやめられる意思の強い自分。こういった考えにのっとっている限りは、自分は失敗を帰属される強烈なプレッシャー下にあり、そのプレッシャーのせいでいい状態が持てなくなります。そのため、結果として失敗する。そして飲んでしまったのも、自分の責任。どこまでも責めが続きます。

 


そこからスライドしていく。自律的な働きを自分ではなく、第3者と認め、他者として付き合う。結果として、意思があるから何をしても自分の責任という思考のプレッシャーが軽減したほうが人は変われる。能動態と受動態しか認識のあり方がない世界から中動態的認識に移行していくことが当事者研究などにおいても重要になってくるわけです。

 

さて、話しは信頼に戻りますが、変わらないものにしがみつくことが信頼なのではなく、しがみつくことを手放すこと、結果としてゆだねることが信頼なのであると思います。自分自身の支配を諦め、自分の意思ではない、自律的なもの、中動態的なものの働きにゆだねる。それが信頼するということなのではないかと思いました。