降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

稽古のレポート3

自転車で転んだあばらも3週間ぐらいするとくしゃみしても痛くなくなった。

 

今回は座法と臥法(がほう)をやった。座り方と寝方。

 

ただ座ってはいけないのか、何をしようとしているのかと思っていたのだけれど、やってみて思ったのは意識状態が変わるなということ。

 

正座なのだが、まずかかとをぴたっと揃えて、前傾になり、片方の足を平行に後ろに一足分下げる。膝の力を抜き、落とし、膝がついたら下がっている足を前ににじり寄せる。まだ立っている両足首を寝かせ、足首の間にお尻をねじり込むように入れる。

 

普段は正座しないし、正座するとしても座る時わざわざかかとを揃えたりしない。だがやってみると、独特の緊張、テンションが生まれることがわかる。だらっとした感じでなく、ツーっとある緊張。この緊張はもちろん意識状態とも連動している。

この緊張、この意識状態を維持しながら座るということをしているのだと思う。西海岸由来のフリー、リラックス、ナチュラル、みたいなこととは逆を行っているようだ。想像するに、自意識の自動統制状態は弛緩させ、放置したところで、同じことを繰り返す。身につけたものがあるので、そのままではいい状態は導かれない。感受性をあげ、あてにする感覚を更新することをする必要があるのだと思う。

 

リラックスというものがそもそも何なのかということがある。過緊張の反動としての過弛緩なのか。確かに、落としたものをもう一度元に戻すのには負担がかかると思う。電車で次の駅にいくのに座ると立ったり歩く時にかける頑張り、踏ん張りがあえて必要になる。エネルギーの運用効率なのか、立ったままの方がその頑張りや踏ん張りをブーストする必要がないので、むしろ楽だったりする。できるならば、過緊張をかけず反動のこない状態で、常に一定の緊張、テンションを維持するほうがいいのかもしれない。

また緩めることを強制停止機能、緊張機能である自意識でやることのちぐはぐさということもあるかもしれない。緩めるではなく、緩まるにする必要があるのではないかと思うのだけれど、緩めるとして自意識でやる時、身体の一部分の電源を切って、一時的な死体にして、無感覚にするようなことをしているのかもしれない。

過度の弛緩や暇は、依存症患者などの場合、過去のトラウマを引き起こすような自体をおこしたりする。そう考えると、過度の弛緩というのは現在の状態のバランスを崩す働きをするのでは。それがいい結果に働くこともあるだろうけれど、次の駅で降りるのに立ったり座ったりというエネルギー消費の大きさはいらないと考えるならば、緊張を維持する工夫もあっていいだろう。

自意識でやる「リラックス」、「フリー」、「ナチュラル」はあくまで擬似的なものであり、そこを自意識で狙っても仕方がないということなのかと思う。

 

そうではなく、むしろ不必要なもの、大敵とされている「緊張」の自覚的な使い方や設定こそ自由を導くものなんじゃないか、と。


臥法は、正座から両手を前につき、手に体重を乗せていきながら、押さえていた手をさっと放し、落ちてきた体を肘で受け止めながら同時に足を後ろに突き出して、つま先と肘で体重を支える。そして太ももを腰に近いほうからだんだんと地面につけていく。さらに足のつま先を丸める方向に曲げながらそれに釣られる働きで脚をあげ、その時に手は傘を閉じるように体の横に腰に持っていく。そして脱力する。

自然とは程遠い、ほっといて絶対しない寝方。なんでこうするのかというのも、一度作った身体の状態、意識状態を維持するためのものだった。この状態で相手に触れたり、触れられるとき、その感覚が変わる。死んだモノとして触るのではなく、生きているもの同士が同調した状態になるという。確かに手の表面に繊細な振動があるような感覚があり、その上で触れたり触れられたりすると、ボタっボタっと塊で感じられていた手が細かな解像度を持ったもののように感じられる。

ある特定の状態を「良い状態」とし、その状態に持っていくこと、その状態を維持すること、使えるようになることが稽古の趣旨なのだと思う。そして確かにその状態は、精神的にもすっとした感じがあって、僕個人もその状態は良いと思う。この意識状態で日常を送ると割とすっと次の行動に移れる感じがある。